カイパパ通信blog

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルの方から来ました

連休中にAtokからMacのシステム標準の「日本語入力」に変更しました

この連休で良かったこと。Macのシステム標準の「日本語入力」に変更したことです。これまでAtokを使ってきたのだけど、OSをアップデートしてから、「変換候補ウィンドウが2ページ目にいくと変換候補が表示されないバグ」が発生して、回避方法が発見できずストレスになっていた。

毎日のことですからバグはいちいちイラつくし、思考の流れが止まってしまいます。

システム標準の日本語入力は2年ほど前からライブ変換ができるようになって画期的だと思ったけど、導入当初は印象はあまり良くなかったのです。Atokに不満もなかったので、利用してきませんでした。

必要に迫られて、今になって使ってみると本当に優秀で。こうやって打ちながら色々な候補がライブで表示される。すごい速度でくるくると変換候補が表示されるので、気にしだすと鬱陶しいですが、入力中は変換候補には視線を置かず、ただインラインの変換だけを見ていればいい。正確に変換されていくから問題ない。迷う候補はMac側から提示してくれる。その時だけ入力スピードを緩めて検討する。スペースバーで変換をするのはその時だけになりました。

やっぱり、2年も時間がたつと別物みたいに性能が良くなるから、定期的にチャンスを与えてやらないといけないですね。君子豹変す。

Macユーザーで、システム標準の日本語変換を使用していない方、一度お試しあれ!

わたしも環境をつくっている一部です

友人たちと近況報告をして気づいたこと。

  • 「やさしい人がいる」んじゃなくて「やさしくいられる環境がある」ということ。
  • 強いプレッシャーにさらされたパワハラ環境では、人はやさしくいられない。大切にされ守られている環境では、自然と周りの人を助けやさしくなれるのでしょう。

その気づきをもう一歩おしすすめて考えてみました。

「環境のせい」にするけど、「自分自身もハラッサー(ハラスメントをする人)として環境をつくる一部になっていた」事実もあるんですよね。それを自覚しないといけない。

そういうことはままあって、「環境」を批判しているとじぶんの立っている場所が見えなくなってしまう(見えなくしてしまう)。まるでじぶんだけはイノセントだ、みたいに。

こんなできごとがありました。

キリンが「午後の紅茶」の宣伝のため「こんな女子がいるよねー」というノリのイラストを公式Twitterで投稿し、「不快だ」という意見を受けて、謝罪して投稿を削除しました。

www.huffingtonpost.jp

わたしはこのできごとを、次のブログを読んで知りました。記事の要約*1

rainbowflag.hatenablog.com

記事では、キリンがこのような広告を採用したのは、既出の人気連載があったためではないかと仮説を示します。そして、その連載は執筆者が女性で、

「女子」自身による「女子」への突っ込みであり、構造的には一種の「自虐ネタ」 

になっている点を指摘します。

その上で、当事者による「自虐」が、エンパワメントの前に先立つ場合があると指摘します。

しかし、本当に傷つき、自己肯定感の微塵もない者にとっては、まずエンパワメントより、自分が傷ついていること、弱いこと、辛いこと、自分が自分で認められないこと「そのありのまま」を肯定する場、過程が絶対的に必要であり、「自虐」はそのような人たちの「受け皿」になっている。
これも「自己肯定」の過程のひとつに過ぎないのだが、疲れ果てている人にとって「エンパワメント」は眩しい。 

この「疲れ果てている人にとって「エンパワメント」は眩しい」という文にうなりました。*2

「自虐」が、当事者が傷つき、疲れ果てている状態から現れている表現だと気づかずに、

ある限られた文脈の中でしか受け入れられることがない当事者の表現を「自分がやってもいい」と軽く考えてしまったことが「キリン」の失敗だった。そして、意思決定過程に女性がいたとしても、仮に作家が女性だったとしても、そう考えてしまったことが批判を受ける「キリン」という企業の「男性性」なのだろう。

この指摘も、まさにそのとおりだと思いました。

で、ここに出てくる「男性性」という指摘が、胸に刺さるのです。

「男性性」というのは、キリンという企業に性別があるわけではないので、つまりはこの社会(環境)が男社会であって、その論理で回されていることをいっている。

その指摘を「そのとおりだ、けしからん」と息巻いてみても、男性であるわたしも環境をつくっている一部だということにヒヤリとするのです。
パワハラやセクハラを嘆いてみるときに感じる「うしろめたさ」は、いつもどこかで、被害者にたつより「ハラッサー」になる可能性が高いと思っているからではないか?*3

「男ですみません」と懺悔するのも違う……と思うのですが、じぶんの性をはじめ「環境をつくっている一部としての立ち位置」に無自覚でいてはいけないと思うのです。*4

*1:この記事は「自虐」とエンパワメントの関係を繊細に析出してくれています。そして、強者が「自虐」を触るとき、それはもう「自虐」ではなく、「いじめ」になってしまい、傷ついている心をさらに傷つけてしまうことを教えてくれました。

*2:当事者のエンパワメントの活動をする人に対して「意識が高い」と冷笑するひとたちが「意識が高い、だからダメだ」と必ずしも思っているわけではなくて「眩しくて、見てるのが辛い」という場合もあるのだと思います。

*3:そうだとすると、セクハラに対して過剰に反応している男性たちは、実は、「今の社会で、男性であること自体から生じる強制や暴力性」について、うすうす気がついているがゆえに反発しているのかもしれません。逆説的ですが、安易に「女性の味方です」とためらいなく言える人よりも、真に変われるチャンスに近いのかも。悪人正機的に。

*4:「だからなんだ?」という問いに対しての現時点の答え。「男だから」という固定観念(=気づけないくらい内面化している)があるから、暴力性を指摘された時に胸に刺さるのだろう。「実際に暴力への欲望がある」という自覚が大事。そうでないとコントロールができず暴発(他人を傷つける)するかもしれない。自覚→制御が御しがたい獣を内に飼っている者の責任だ。

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。

障害者に関わる事件を取材する記者と話をする機会がありました。

その時の対話でお話しし、考えたことを、いつか書きたいと思っていますが、今日は結論としてわたしが話したことだけ記録しておきます。

「要は、人権が守られていないということなんです」

つきつめるとこんなにシンプルで「当たり前」の指摘になってしまいますが、本当に、心底そう思います。

人権が守られているというのは「その人らしく生きられる」ことです。

今日は憲法の日です。いろいろな議論はあっていいと思いますが、
正面から向き合うべきなのは「保障されているはずの人権が守られていない現実」です。日本国憲法が保障している基本的人権は、誰にも奪うことができないものだということをもう一度確認しておきたいです。

日本国憲法

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 

【紹介】長い休みに思い出す~わが子の障害がわかったあの頃

ゴールデンウィークの長い休みで、幼いわが子と長い時間を過ごす。妻から不安を幾度となく聞かされても「気にしすぎだ」と取り合わなかった父親も。
子守を任されて、2才児がよろこびそうな場所に連れて行こうとする。いつもと違う行動を全力で嫌がる。奇声をあげる。だっこから身体をよじって落ちても気にせず脱走しようとする。電車は無理だとあきらめて、車に乗せる。走っている間は静かで、信号で止まるたび、キィー!と叫ぶ。

ほとほと疲れ果てて家に帰り、「ただいま」の声に答える声はない──ベッドでは死んだように眠る妻の姿。心は折れて、たった半日なのに、これだけぼろぼろになってしまった。妻はどれだけ苦しんだだろう? いったいこの子の何がおかしいのか…。

わが子はいつもの席に座り何かを待っている。何を待っているのか? 何が欲しいのか? わからない。また泣き始める。仕方なく、妻を起こす。

「悪かった。休みが終わったら、どこかに相談に行こう」

──書いていて切なくなります。きっと今もどこかでこのようなことが起きている。

2015年のゴールデンウィークに、カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルで書いた記事の冒頭です。

男親は、わが子と接する時間が短く、他の同年代の子どもたちと比べる機会が全然ないため、「何かが違う?」ことに気がつくのが遅くなります。そこで生まれる夫婦間の温度差が、将来にマイナスになることが多くあります。

そして、いざ相談に行って、障害がわかった時に知っておいてほしいことを書いています。続きはこちらから。

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 長い休みに思い出す〜わが子の障害がわかったあの頃

未解決の課題に取り組む存在は自らの負担で社会実験を行ってくれている。行政は敬意をもって注目し、次のフェーズに進む支援をすべき。

わたしは仕事をしていて、いつも思うのです。

解決できることは既に解決されている。今残っている課題は、難しくて、未解決のものばかりだと。だから、カンタンに「スッキリ!」といかないのは当然だ。

まあ、辛い時のなぐさめなんですけどね。

lessorさんの記事をシェアします。

lessor.hatenablog.com

記事を読んでわたしが感じたことを書きます。

脚光を浴びている存在は影をつくる。
人には感情があるから、自分と比較して、うまくやっているようにみえる団体を指して、「ファンドレイジングだけ上手だ」とか、「おしゃれNPO」だとか、揶揄しがちだ。批判は大切だ。本質を外している(自ら目隠しをしてしまっているように見える)活動も時には目につく。
だが、外形だけをとらえて、「やっていることの価値」そのものをおとしめることはやめたほうがいい。
それもまた大切な試行のひとつだからだ。人が持つエネルギーは有限だ。何がうまくいくかいかない課題に対する試行は「多産多死」となる。担い手は多いほどよい。

ニーズに対して、気がついた人が実際に活動をして「先例」をつくり、成功事例として行政に採り入れられていく。この経路は昔も今も変わらない。

最大最強の非営利組織である行政は、柔軟に、民間の取り組みを認めることを誤らないようにしなければならない。なぜなら、それはこれから行政が進むべき先を示しているかもしれないからだ。
今の時代に解決されていない課題は、まだ誰も最適解を知らない。だから、気づいた人が、様々な試行をくりかえさないと進むべき道は見えてこない。
行政は、民間が「身銭を切って、ボランティアで、課題解決に取り組んでいる」ことに敬意を払うべき。今、実現している福祉の制度は、まず当事者と支援者たちが自らやってみて、必要性と実現可能性を証明したものばかりです。

行政は、あとをついていっている。だからこそ、敬意と細心の注意を払ってアンテナを張り、「施策に採用できるものはないか?」「さらに試行ができるように補助できるものはないか?」を積極的に探す、そういう姿勢が必要だと思います。
有意の人や組織のやる気をくじく、など、もってのほかです。

 

きょうだい──障害のある家族の話をするときにみせる、かなしみの表情が晴れるように

カイには、きょうだいはいません。わたしの友人には、障害者のきょうだいの立場の方が多くいます。

昔、児童相談所のベテラン心理士と話をした時のことを思い出します。
その方は「私には障害者の家族はいませんが、よくご家族に障害者がいますか?と聞かれるんですよね。今はだいぶ変わってきましたが、それだけ福祉に関わる人にはきょうだいだった人が多かったんです」と話してくれました。
わたしが「カイパパ」という自閉症の子の親である立場を明らかにして活動しているため、出会った人から「自分は親です」「自分にはきょうだいがいます」と話してくださることがあります。
その中には、福祉や法曹の仕事など、障害に関わる仕事を選んだ方がいます。みんながみんなというわけではもちろんありませんが、進路の選択にきょうだいの存在が影響をしていると感じます。

親にもいろいろなタイプがいます。
「あなたは、きょうだいの面倒をみる責任はない。自由に生きてほしい」という思いは共通していると思います。
一方で、心の内にはやはりどこかで「最後に頼りになるのは身内だ」という保険をかけるような思いを消すことはできないでしょう。それは、親としては自然なことであり、消す必要もないのかなと思いますが……
きょうだいにとっては面と向かって言われる、あるいは面と向かっては言われないまでも、親のそうした願いは敏感に感じています。障害のある兄や弟の世話で苦労している親をみていて「自分の役割はどうあるべきなのか?」を悩まないではいられません。
親の願いは残念なことに「呪い」となってしまう。

その複雑な思いをひとことで言い表すことはできません。わたしが、きょうだいのお話を聞かせてもらって共通しているように感じるのは「うしろめたさ」のようなものです。うしろめたさなんて感じる責任はないのになぜ?
障害のある家族の話題をだしたときの、不意を突かれ、ハッとしたような顔、そして話しながら見せる影が差したかなしみの表情──。

最初に書きましたが、カイにはきょうだいがいません。
わたしは、自分がいなくなった後の彼の孤独を思うと呼吸が苦しくなります。
きょうだいの立場にある人は、わたし(親)と同じくらい先のことを考えて呼吸が苦しくなる思いを抱えているのではないでしょうか?

親ではないのに。これから大人になって、じぶんの家族をつくって、生きていくのに。幼い子どもの頃から、こんな息苦しさを感じ続けて生きることはキツい。

だから、あの、かなしい表情が晴れるような、心を軽くできるような輪(サークル)がもっとできたらいいと願っています。

きょうだいの方に教えていただいた、障害者のきょうだい(兄弟姉妹)のためのサイトをご紹介します。

Sibkoto | 障害者のきょうだい(兄弟姉妹)のためのサイト Sibkoto(シブコト)

まだウェブサイトは試運転中ですが、全国にある、きょうだい会が、きょうだいたちが、ゆるやかにつながって語り合える場となりますように。そして、今まだ幼くてひとりで苦しんでいる子どものきょうだいに、先輩たちからのことばが心に届きますように。*1

わたしは思います。

「血のつながりがないほうが、過去のわだかまりがなく、プロフェッショナルなサポートができて暮らしやすいよね」

「大人になったきょうだいは、たまに顔を合わせるくらいの距離感がいいよね」

こんなふうに本人もきょうだいも親も言い合えるといいな。これがふつうになればいいですよね。

障害があることを、家族という小さな輪の「責任」にすることにムリがあるのですから。

*1:Sibkotoに登録できるのは障害、疾病等のある兄弟姉妹がいる者で13歳以上の者に限ります。→会員登録

1990年代まで強制的な不妊手術が行われていた事実を前にして何を思いますか?

手をつなぐ育成会の声明文を紹介したいのですが、まずその背景を説明します。

旧優生保護法によって強制的な不妊手術が行われていた

日本には優生保護法という法律がありました(1996年に改正され、母体保護法となった)。
優生保護法(法文:衆議院HP)では、第4条に次のように定められていました。

(強制優生手術の審査の申請)
第四条 医師は、診断の結果、別表に掲げる疾患*1に罹つていることを確認した場合において、その者に対し、その疾患の遺伝を防止するため優生手術を行うことが公益上必要であると認めるときは、前条の同意を得なくとも、都道府県優生保護委員会に優生手術を行うことの適否に関する審査を申請することができる。

 つまり、本人や家族らの同意がなくても都道府県の審査会が認めれば手術ができることとされていて、実際に手術が行われていたのです。その数は約2万5千人に上り、うち約1万6500人は同意のないまま強制されたとされています*2 *3 

全国手をつなぐ育成会連合会が出した声明文を読んで

zen-iku.jp

この問題は私たち知的障害のある人の家族にとっても大きな課題を突きつけていると考えます。不妊手術の強制は、以前から問題視されていました。でありながら、私たち自身もこの問題に向き合ってきたとは言えません。

地域で暮らしていくための福祉サービスも未整備で、偏見や差別も根強い時代の中で、周囲や専門家から手術を勧められ、首を縦に振った家族も少なくなかったはずです。

そうした実態はある意味タブー視され、私たちの間でも共有されることはありませんでした。

この部分にわたしは注目しました。
手をつなぐ育成会は、知的障害の子を持つ親を中心とした団体です。
「非は国にある」と突き放して言い切ることができるのならよかった。でも……この法律の規定は1996年まで生きていました。直接、手術を「許容した」家族もいるわけです。そして、それが誰なのか、当事者以外に知ることはできません。だから、議論することもできなかった。この逡巡を想像する時、「親」が常にもっている障害のある子に対する加害性を意識しないではいられません……。
しかし、痛くても事実を究明して、過ちをくりかえさないことが求められます。

手をつなぐ育成会の声明文を再び引用します。

障害のある人の尊厳を大きく傷つけてきた不妊手術に対し、国はその過ちを認め、全容の解明とすべての対象者への謝罪・補償を行うべきと考えます。
一つの命としてこの世に生まれ、さまざまな困難に直面しながらも誰かを愛し、家族をつくり、時間を共有しながら人生を全うしていくことは、誰にも認められるべき生き方です。
そこに、障害の有無など関係ありません。

ぜひ全文(PDF)に目を通していただき、考えていただけたらと思います。 

*1:別表の疾患

別表   (第四条、第十二条関係)
第一号 遺伝性精神病     精神分裂病
      そううつ病
      てんかん
第二号 遺伝性精神薄弱
第三号 顕著な遺伝性精神病質     顕著な性慾異常
      顕著な犯罪傾向
第四号 顕著な遺伝性身体疾患     ハンチントン氏舞踏病
      遺伝性脊髄性運動失調症
      遺伝性小脳性運動失調症
      神経性進行性筋い縮症
      進行性筋性筋栄養障がい症
      筋緊張病
      先天性筋緊張消失症
      先天性軟骨発育障がい
      臼児
      魚りんせん
      多発性軟性神経繊維しゆ
      結節性硬化症
      先天性表皮水ほう症
      先天性ポルフイリン尿症
      先天性手掌足しよ角化症
      遺伝性視神経い縮
      網膜色素変性
      全色盲
      先天性眼球震とう
      青色きよう膜
      遺伝性の難聴又はろう
      血友病
第五号 強度な遺伝性奇形     裂手、裂足
      先天性骨欠損症

*2:参照:神戸新聞NEXT社説2018年1月31日

*3:参照:岩波書店「科学」1997 VOL.67 NO.10

やっぱりあいちコミュニティ財団のことを議論してファンドレイジングを考えようよという返信の記事

yoshimi-deluxe.hatenablog.com

うん。石黒好美さん、よく書いてくれた! とひざを打ちつつ、胸をかきむしりたくなるというアクロバティックな葛藤を引き起こす誠実な文章です。

石黒さんはこの文章で「あいちコミュニティ財団のことは関係者やその周りにいる人だけではなくて、全国のファンドレイジング業界関係者みんなに問題を投げかけているんじゃないのー?!」と問いかけています(超訳)。

では、その投げかけている(普遍的かもしれない)問題とはいったい何か?ということを、わたしなりに考えてみました。

利益追求が第一ではない(とされる)非営利組織には、
「志」という美しく輝く御旗によって覆い隠されている「やりがい搾取」(たとえば、法令違反や能力あるいは業績に対してバランスの取れない対価、ハラスメント)が、
高い確率で存在する──

実態のことかなと思いました。

この(どこにでもある。ほんとよく見かける。いや他人事じゃないよねマジで、な)実態を、あいちコミュニティ財団は、典型的なかたちで露わにした。

だからこそ、「地方のイチ財団がヘタを打った」と等閑視せず、中央のハイスタンダードな皆様方におかれましても、ぜひ正面からご議論いただけないかとそう思うわけです。

 

【追記】

実は、引用記事の中で反応したのは脚注部分──

*1:ちなみにFRJ2018では「ファンドレイジングの7つのジレンマ~ワークショップで考える、エシカル・ファンドレイジング」というセッションがあったようです。「エシカル・ファンドレイジング」という言葉が衝撃だったんですが「エシカルとは言えない面も現状、ある」っていうことをちゃんと認識することって大事だなーと思いました。

このセッションでは、日本で一番存在感の大きい団体の寄付の原資がギャンブルの売り上げ(の一部)であることなどについても議論されたのでしょうか ?

かさぶたはいつか癒える?〜心の傷は放っておいても治らない

印象的な記事に出会いました。

plus-handicap.com

引用します。

完了していない感情、心の傷は放っておいてもなくなりません。突然のことで、苦しみから一時的に逃れる、悲しみに暮れる暇なんてないときがありますが、そんなときは、いわば冷凍保存されます。放っておいても消えてなくなるわけではなく、解凍する機会を必要としているのです。 

だから、周りの人の手を借りたり、迷惑をかけたりしながら、表に出して治癒の過程を進んでいきましょうという内容なんですが。

わたしは元ブログ「カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル」で、親の「昇華されない感情」=痛みの記憶について何度か語ってきました。

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 痛みの記憶〜語ること

この記事では、親が子どもが生まれて障害がわかってどう感じたか、今の想いについて語るペアレントトークについて語りました。

こうままさんが、ある時、「傷は治っても、〈痛みの記憶〉は残っている」とお話されていて、ああそのとおりだなと思いました。
私が講演をしていた時、いつも感じていたのは、「せっかく固まったかさぶたを、思い出すことで、かき壊しているような気持ちがする」ことでした。
そこに「傷はない」のだけれど、「痛みの記憶」が残っている。


今は、元気に笑っていても、
一皮めくれば、苦しみや痛みはまだそこにある。

話すことは、「あの頃」のことを、追体験することですからね。 
「伝えよう」と努力すればするほど、痛みがよみがえってくるものです。 

人前で子どもの障害について話せるような親は、既にいろいろなことを乗り越えてきています。その過程で、とてもぶ厚い鎧(よろい)のような「かさぶた」を身につけてしまっています。それは見た目、強くてきらきらして輝いている頼もしい笑顔だったりします。

だけど、たいていは、がんばりすぎちゃっているんですよね。危うい。

この記事の続編で、「純粋なペアレンツ・トーク」という記事を書きました。

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 純粋なペアレンツ・トーク

ここで伝えたかったことは、ペアレンツトークはいったい何のためにやるんだろう?ということです。

「こわれやすい、宝物(わが子)をあなた(支援者)の手に託すのです」

という、信じて、託す、捨て身な「願い」──


だから、受け取ってもらえず、拒絶されたとき、
誤解され、わらわれたとき、
何かが、砕け散ったような、衝撃を覚えるんだろうな。


結論。

この特別なメッセージは、あて先も特別な人のためであるべきなんじゃないかな、
と思う。

この子たちを、託す大切なあなたへ

わたしの思いは届いていますか?

親と同じ思いを持って、子に接してもらうことは本当に難しいことだけど、少しでも近づいて欲しいから、かさぶたをはがすような辛い思いをして、過去の記憶を蘇らせながら話すんだよね、と。

そして、カイが18歳になった今、わたしが思うことは、心の傷は放っておいても治らない、今までいろんな場所で多くの人と語り合ってきたこと、またブログなどで文章にしてきたことは、わたしにとっては治療だったんだなということです。

ひとりで心の中に隠しこんでおくよりも、外に出して、じぶんでも「目に見えるかたち」にしてみる。
そうすると、呪わしかった感情が、逆に「きれいだな」とか「つらくて泣いていたじぶんが愛おしい」と許せるようになる。
許せると、今度は再びその痛みの記憶を大切なものとして抱きしめ直すことができる。そんな気がします。

だから、「話をしよう。聴くよ」と言い合える安全な場があるといいなと思います。

 

この一瞬が1000年の時を超えて、伝わる〜映画『ちはやふる -結び-』

ここのところ映画づいています。前記事に続いて映画「ちはやふる -結び-」の感想を書きます。

chihayafuru-movie.com

何周も読み返している漫画「ちはやふる」の映画化です。原作ファンとしては、「上の句」、「下の句」に続いて、「結び」も観ないわけにはいかない。公開2日目に観てきました(楽しみにしていた!)

原作はまだ完結していません。だから原作ファンにとっては、原作の膨大なエピソードをわずか2時間の尺でどう「結び」にするのかが関心事。まさか、原作を追い抜いて結末まで見せちゃうの?とかね。

実際に観て、いやぁこの手があったか!と思うことが多々ありました。話したいけど、ネタバレになるので公開中の今は控えておきますね。

以下、ネタバレにならない(と思う)範囲で感想を書きます。

この映画は、原作ファンか広瀬すず、野村周平、新田真剣佑のファンしか観ないかもしれませんが、「一瞬を切り取った歌が、1000年の時を超えて、今この瞬間に伝わる」尊さを、観る者にストレートに伝えてくれる良作です。
「じゃあ、今わたしが生きている一瞬も、もしかしたら1000年後にも残るような尊いものなんじゃないの?」と。そして、その一瞬は青春の時期だけじゃないと思わされる。

40過ぎても50になっても。今の一瞬は尊い。

そして「結び」の何がよかったかっていうと、真島太一の映画になっていたこと。わたしは、漫画でも太一がどんどん好きになっているから。
映画の方が、周りの働きかけによって、太一がはっきりと気持ちの表出を導かれていて、わかりやすくなっている。(周防さん、漫画とキャラ違うくないか?でも賀来賢人良かった)

何度も「バカ太一~!」と心で叫びながら涙をこらえて観てました。

なんかいつもと文体もちがう、ファン丸だしな記事になりました。まいっか、ファンだから。

#ちはやふる結び

 

映画『15時17分、パリ行き』で描き出されるヒーローはベタなのかネタなのか?

3月11日に映画1517分、パリ行き」を観てきた。わたしは、過去のことを思い出しながら観た。

wwws.warnerbros.co.jp

まずこの映画、短い。さすがイーストウッド監督、90分間ムダなくいろんな感情をわきおこしながら、走り抜けていく。列車の疾走感が全編通じてあった。

ミスフィットな子どもたち、レッテルを貼ってすぐに排除しようとする学校。
母親たちが、一貫して子どもを愛しているのがよかった。

ラストシーンでは報われた。
要領わるくて、頭もいいとは言えない。それでも、「平和の礎」になりたい、人を救いたいという思いを失わずに大人になって。平凡でささやかな、「善をなせ」という責任感。ヒーローと呼ばれるのが、とてもくすぐったそうな3人だった。

わたしは高校生の時にアメリカに留学していた。空気感(主人公3人のうち2人は従軍している)がわかる部分がある。

アメリカの公立高校には、授業で軍に入るためのプレクラスみたいなものが選択できた。ある日突然クラスメイトが軍服を着て教室に入ってきて授業を受けているから、「どうしたの?」と聞くと、「今日はアーミークラスがあるから」という。
「卒業後自分がアーミーに入るから今からクラスをとっているんだ」と答えた。

アメリカでは、大学に行く学費を稼ぐためにまず軍に入って数年間軍務に服して、それから退役して進学したり、仕事をしたりする人がいて、そういうキャリアコースを学校でも勧められたりする。
友達と話していて、すごく軍に入りたいわけではなくて家庭の経済状況からやむなく、という感じも感じたりした。

日本人にはわからない感覚だが、学校に軍のポスターが貼ってある。進路の1つとして軍がある。
だから、この映画の主人公たちも、使命感に燃えて軍人をやっているわけでもない。だが、結果的に居合わせた場面で、行動ができてしまった。映画は、「なぜ彼らが行動できたのか?」を謎解きするような構成で作られている。時に、聖書の文句を引用するシーン、子どもの頃の夢や挫折、訓練中の向こう見ずな行動をとるエピソードなどが挟み込まれている。

だが、そのエピソードのひとつひとつが「軽い」のだ。どこにでもありそうなごく平凡なできごとに過ぎず、観る者に強い感興をひきおこすことがない(そういう演出になっている)。

イーストウッド監督は、「平凡さの中にある勇気は、このような日常や人生から生まれるのだ。彼らこそが真のヒーローだ」とベタに主張しているフリをして映画もそのようにプロモーションしながら、「人は意外と根拠もなく、深い意味もなく、自己犠牲ができてしまう。ヒーローなんていない。それはすべて巡り合わせのようなもの」という達観した人間観を実は主張している印象を受けた。

この映画がすごくリアルなのは、平凡さを平凡なままに描いているところだ。あえて、事件の当事者たちを本人役としてキャスティングしたのも、プロの役者が「うまく」「感興をひきおこす」ように演じて欲しくなかったからじゃないだろうか?

つくづく凄い監督だ。。。

P.S.
わたしの友達が一番ドキッとするのは、映画の冒頭に出てくる小学校でのカウンセラーとの面談シーンだと思う。子どもを信じてカウンセラーに反論する母親たち。親たるもの、こうありたいと思ったね。

障害の子をもつ家族支援の障壁となるもののひとつとして

kaipapa.hatenablog.com

↑このカイパパ通信blog記事で問題にした(補正を加えた)ツイートに関して、ツイート主である大久保賢一さんが論文の主張を解説する記事が書かれました。ツイート拡散の影響を放置しないための誠実な対応ですね。ぜひご一読ください。

よろしければ、大久保さんの記事のシェアにご協力をお願いします。

格物究理(かくぶつきゅうり) 「親の悲観的思考と自信のなさ」と子どもの行動障害

前述したHandbook of Positive Behavior SupportにおいてDurandらは家族支援の障壁となり得る要因として、家族のストレス、親への高すぎる要求水準、親が介入効果を実感できないこと、セラピストとの関係性、親の社会経済的状況、脆弱なソーシャルサポートなどを指摘していますが、その中の1つとして「親の悲観的態度や自信のなさ」をあげており、そこには付加的な支援が必要であることを主張しています。

(この章では「悲観的思考」の例として、子どもをスーパーマーケットに連れて行くことを取り上げ、実際には買い物の種類や時間の長さによって行動は変わるのに「買い物は何もかも全部ダメ」と考えたり、実際には少しずつ適応的な行動が増えてきているのに「うちの子どもはいつまで経ってもずっとダメ」と信じ込んでいる親をあげています)

Durandらの解説においては、少なくとも「親の悲観的思考や自信のなさ」をスケープゴートにするような意図は感じられず、支援の必要性と支援の可能性を主張している文脈であると読み取れます。

障害がわかった時の圧倒されるような不安…… *1
今もくりかえす将来への茫漠たる不安。抑うつ的になりたくなくても、ぎりぎりのエッジを生きている感じはぬぐえません。
わたしは、強い落ち込みの後に、外に出て行って仲間を見つけることに夢中にななりました。それがベストだったとも、それ以外に方法がないとも思いません。
「カイパパ」というペルソナが守ってくれることもあれば、自分を傷つけることもありました。

「ロールモデル」のような表現や祭り上げ方には抵抗があります。「あの人は、ああだから、あなたも」というアドバイスにはリスクがあります。

結局は、いろいろ見て経験して、いったん「じぶんはじぶんだ」という「その時点での納得」を見つけ続けて、ひと息つきながら生きていくんでしょう、わたしたちは。

*1:ちょっと大久保さんの記事からは離れますが、思ったことを書きました。

話題のツイート「親の悲観的思考と自信のなさ」についてカイパパが補正を加えたいこと

Twitterでは文字数の制限があるので、論文の内容要約・紹介はむずかしいです。

特に、要約が衝撃的でキャッチーだったりすると、ものすごい勢いで拡散されていきます。そのツイートの後に、補足ツイートがついていたりするのですが、補足は読まれずにパンチ力のあるツイートだけが一人歩きします。

今週目の当たりにした典型的な例をみてみます。

このツイートに対しては、激しい反応が起きました。いわく「育てにくい子を持って、親が悲観的になり自信が持てないのは当たり前ではないか」と。そりゃそうですよね。

ツイートで記事や論文が紹介するときに、URLを貼ることでツイート内容が正確かどうか検証できるようにするのが作法です。このツイートも作法を守りリンクが貼ってあるのですが、論文が英語で書かれていて、本文を読むためには購入が必要なため、論文の現物に当たることが難しいです*1。また、無料で読めるサマリー(要約部分)にはツイートで書かれている内容は書かれていません。

そんな中、猛烈な勢いでリツイート(1万1千以上)がされていきました。「お気に入り」登録数も2万近くあり、本当に多くの人の目に触れました。

そもそも片言隻語*2に過ぎないツイートが大拡散するケースは「読者が元々もっていた信念を補強するような内容」であることが多い。「私が思っていたことが論文によって証明された」と思うわけ。逆に「元々もっていた信念に反する内容」であれば、反感リプライが殺到することになる。

論文そのものは読まれず、わずかな文字数のツイートを「自分の信念・文脈によって理解」して激しい反応を引き起こすんですね。

わたしが当該ツイートから受けた印象は、「また新たな母原病説(自閉症の原因は母親の不適切な対応によるとする説)か」ということです。親がダメだから子どもの症状が悪化する。とても切ない思いをしました。これも、わたしが自分の信念にひきつけて解釈したからですね。

ツイート主である@kenichi_ohkuboさんとやりとりをする機会があり、教えてもらったことは、

  • 「子どもに自閉症や行動障害があって、その結果親が自信を持てず悲観的になると行動障害が悪化する」ということを示している研究ではない
  • 「親になる以前から元々悲観的に物事を捉える傾向のあった人は、親になったときに通常のペアトレなど単独のアプローチではあまり効果が期待できないので付加的なサポートが必要」という話
  • 「特に悲観的な親に付加的な支援が必要」、「というかそこからやる必要のあるケースもある」という当たり前のことを示している研究

でした。実はわたしも見逃していたのですが、最初のツイートの直後に次の補足ツイートもされていました。

また、次のツイートも追加されています。残念なのは、フォローしている人以外には届かないことですが……。

最初のツイートを読んで傷ついている親の人に届けたくて、わたしもこのブログ記事を書いています。

悲観的になるのは当たり前です。18歳の子を持つわたしだって、未だに将来のことを思って不安になり無力感を感じています。ましてや、初めて子どもの障害がわかった時期に悲観的になるのは自然なことです。

ツイートで紹介された研究が主張していることは、もともと悲観的な傾向を持つ親*3にはプラスアルファの支援・配慮が必要だということです。

おわりに、afcpさんのツイートを置いておきます。 

親は自分自身のもつ不安を隠さずに見せていきましょう。だって、それが子育てにリスクをもたらすとわかってきたのだから。「助けて」と。

支援者はだれにでも効く万能薬や特効薬のような支援はないから、選択肢の多い「薬箱」のようなものを持ちましょうというメッセージと受けとめました。

そして、社会は、システムは、親と支援者を狭いサークルに閉じ込めないでほしい。親も支援者も一所懸命です。社会がもっと寛容に多様な存在を認めれば、生きづらさはなくなっていきます。

 【追記2018年2月28日】

格物究理(かくぶつきゅうり) 「親の悲観的思考と自信のなさ」と子どもの行動障害

大久保賢一さんが論文の主張を解説する記事が書かれました。ツイート拡散の影響を放置しないための誠実な対応ですね。ぜひご一読ください。

【参考】

関連したツイートのまとめです。ちょっと理解が難しいのですが、参考になります。

togetter.com

*1:私も本文は読んでいません。

*2:わずかなことば

*3:それだって個性のひとつであって尊重されるべきもの。悲観的な傾向それ自体は、行動を慎重にし、生き延びるために役に立つものでもあります。

よく調べるとペアレントメンターなどの補助を市町村まで拡大する予算でした!【平成30年度厚労省予算案】

2月1日に書いた記事の続きです。

kaipapa.hatenablog.com

この記事で引用した時事通信の記事からは、国が新たに補助を始めると読めたのですが、

「アレ? 待てよ。愛知県では親の会(愛知県自閉症協会・つぼみの会)が県からペアレントメンター*1事業を受託しているなあ」と思いました。

そこで、

平成30年度厚生労働省所管予算案関係|厚生労働省

を調べてみました。

「平成30年度各部局の予算案の概要 障害保健福祉部」

この中の7ページにありました。

(1)発達障害児・発達障害者とその家族に対する支援【新規】
地域生活支援事業等(493億円)のうち1.3億円
発達障害児者の家族同士の支援を推進するため、同じ悩みを持つ本人同士や発達障害児者の家族に対するピアサポート等の支援を充実させ、家族だけでなく本人の生活の質の向上を図るとともに、身近な支援を実施するため対象自治体を市区町村まで拡大する。 

ここには「市区町村まで拡大」とありました。

実は、厚生労働省は、平成22年度から広域自治体(都道府県)によるペアレントメンター養成研修実施に補助を始めていました。平成25年度からは広域自治体のコーディネーター配置が補助対象になっています。

つぼみの会が愛知県から受託しているペアレントメンター事業はこれのようです。

2018年度からは、都道府県だけでなく、市町村にまで対象を拡大するわけですね!
それから、伝聞ですが、ペアレントメンターが行う茶話会の開催などの支援活動そのものも新たに補助の対象になるようです。予算規模は1.3億円と決して小さくはありません。

わたしが前回の記事で、「国や自治体が直接的に当事者支援に乗り出すようになったら、親の会の存在意義がなくなるかも?」という懸念を書きました。

ですが、愛知県の事例を見ていると、親の会であるつぼみの会が、(国から補助を受けている)県のペアレントメンター事業の受託者として活動をしています。親の会がない地域では、行政がペアレントメンター養成講座を開催して登録する形になるでしょうが、親の会が健在な地域では親の会が委託先として最初の候補になるでしょうし、ふさわしい担い手だと思います。

親による互助活動を、国や自治体が積極的に支援するよい形です。ペアレントメンター事業がきっかけで、親どうしのつながりも生まれることでしょう。エンパワーメントにもつながります。

親どうしだからできることはあり続けると思います。

*1:ペアレント・メンターとは、自らも発達障害のある子育てを経験し、かつ相談支援に関する一定のトレーニングを受けた親のこと。

上映会のやり方 映画「Journey to be continued -続きゆく旅-」

先日、映画評を書いた「Journey to be continued -続きゆく旅-」ですが、「どこで観られる?」とお問い合わせをいただきました。


Journey to be continued(続きゆく旅)予告編 (3分15秒)

この映画は、可児市国際交流協会が、日本社会に居場所を見出せ ない青少年の内面に向き合い、未来を切り開くための方策を探るために、彼らの心情を映像に投影し、対話のツールとすることを目的に制作されました。

したがって、単に映画をレンタルするのではなく、制作者を派遣して、講演・上映・ワークショップといったかたちでの上映会が推奨されています。

ご興味のある方は、可児市国際交流協会までお問い合わせください。
・プレス提供資料 (PDF)

NPO 法人可児市国際交流協会 担当:各務(かかむ)
TEL:0574-60-1200 FAX: :0574-60-1230
Email:npokiea@ma.ctk.ne.jp
〒509-0203 岐阜県可児市下恵土 1185-7

【料金表】(上映を含む 2 時間の規定料金)

・監督による講演
70,000円(企業対象) 50,000円(学校、行政対象) 50,000円(市民、NPO対象)

・プロデュサーによる講演
50,000円(企業対象) 40,000円(学校、行政対象) 30,000円(市民、NPO対象)

・製作担当者による講演
30,000円(企業対象) 20,000円(学校、行政対象) 10,000円(市民、NPO対象)

*上記は、50 人までの規定料金です。消費税と旅費は別途申し受けます。 参加人数、時間により料金は異なります。ご相談ください。

カイパパの映画評はこちら

実に素晴らしい映画なので多くのかたに観てほしいですね!kaipapa.hatenablog.com