カイパパ通信blog

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルの方から来ました

きょうだい──障害のある家族の話をするときにみせる、かなしみの表情が晴れるように

カイには、きょうだいはいません。わたしの友人には、障害者のきょうだいの立場の方が多くいます。

昔、児童相談所のベテラン心理士と話をした時のことを思い出します。
その方は「私には障害者の家族はいませんが、よくご家族に障害者がいますか?と聞かれるんですよね。今はだいぶ変わってきましたが、それだけ福祉に関わる人にはきょうだいだった人が多かったんです」と話してくれました。
わたしが「カイパパ」という自閉症の子の親である立場を明らかにして活動しているため、出会った人から「自分は親です」「自分にはきょうだいがいます」と話してくださることがあります。
その中には、福祉や法曹の仕事など、障害に関わる仕事を選んだ方がいます。みんながみんなというわけではもちろんありませんが、進路の選択にきょうだいの存在が影響をしていると感じます。

親にもいろいろなタイプがいます。
「あなたは、きょうだいの面倒をみる責任はない。自由に生きてほしい」という思いは共通していると思います。
一方で、心の内にはやはりどこかで「最後に頼りになるのは身内だ」という保険をかけるような思いを消すことはできないでしょう。それは、親としては自然なことであり、消す必要もないのかなと思いますが……
きょうだいにとっては面と向かって言われる、あるいは面と向かっては言われないまでも、親のそうした願いは敏感に感じています。障害のある兄や弟の世話で苦労している親をみていて「自分の役割はどうあるべきなのか?」を悩まないではいられません。
親の願いは残念なことに「呪い」となってしまう。

その複雑な思いをひとことで言い表すことはできません。わたしが、きょうだいのお話を聞かせてもらって共通しているように感じるのは「うしろめたさ」のようなものです。うしろめたさなんて感じる責任はないのになぜ?
障害のある家族の話題をだしたときの、不意を突かれ、ハッとしたような顔、そして話しながら見せる影が差したかなしみの表情──。

最初に書きましたが、カイにはきょうだいがいません。
わたしは、自分がいなくなった後の彼の孤独を思うと呼吸が苦しくなります。
きょうだいの立場にある人は、わたし(親)と同じくらい先のことを考えて呼吸が苦しくなる思いを抱えているのではないでしょうか?

親ではないのに。これから大人になって、じぶんの家族をつくって、生きていくのに。幼い子どもの頃から、こんな息苦しさを感じ続けて生きることはキツい。

だから、あの、かなしい表情が晴れるような、心を軽くできるような輪(サークル)がもっとできたらいいと願っています。

きょうだいの方に教えていただいた、障害者のきょうだい(兄弟姉妹)のためのサイトをご紹介します。

Sibkoto | 障害者のきょうだい(兄弟姉妹)のためのサイト Sibkoto(シブコト)

まだウェブサイトは試運転中ですが、全国にある、きょうだい会が、きょうだいたちが、ゆるやかにつながって語り合える場となりますように。そして、今まだ幼くてひとりで苦しんでいる子どものきょうだいに、先輩たちからのことばが心に届きますように。*1

わたしは思います。

「血のつながりがないほうが、過去のわだかまりがなく、プロフェッショナルなサポートができて暮らしやすいよね」

「大人になったきょうだいは、たまに顔を合わせるくらいの距離感がいいよね」

こんなふうに本人もきょうだいも親も言い合えるといいな。これがふつうになればいいですよね。

障害があることを、家族という小さな輪の「責任」にすることにムリがあるのですから。

*1:Sibkotoに登録できるのは障害、疾病等のある兄弟姉妹がいる者で13歳以上の者に限ります。→会員登録