映画「Journey to be continued -続きゆく旅ー」は傑作だった!
(c) 可児市国際交流協会
可児市国際交流協会が製作した本映画は、可児市、および周辺地域に住む外国につながる青少年たちの心情を映し出しています。
日本文化を持たない青少年の学校や社会での課題、サポートする協会 や教育者たちの葛藤、そしてこれから日本が向き合うべき多様な人々との共生のあり方について、様々な問いかけが生まれました。
美術家でありイミグレーション・ミュージアム東京の主宰でもある岩井成昭氏が岐阜県に滞在し、美術を用いた独自のアプローチで青少年と対話し、製作したドキュメンタリー映画です。
ドキュメンタリーというと登場人物に寄り添って、その人のドラマを追いかけるのが定番ですが、この映画はちがいます。映画としての「企み」に満ちたアート作品です。
この作品を観るであろう想定観客は、外国人の子どもや移民、多文化共生に関心があるひとたちでしょう。ですが、わたしは見終わってから、そういったテーマに関わりがない人にもぜひ観てほしいと強く思いました。
*以下は、いわゆる「ネタバレ」を含みます。白紙の状態で、事前情報はシャットアウトして観たいかたはご注意ください(わたしもそのクチです)。
ですが、映画評のおかげで、観るつもりがなかった作品を観ることもあるわけで。この映画は自主上映会でしか見られない映画です。この記事が、そういった上映会に足を運ぶ、さらには上映会を開く、そんなきっかけにつながればこんなにうれしいことはありません。
内なる風景と明晰な言葉
チャプター1「内なる風景」
可児市で暮らす16歳から22歳までの外国にルーツを持つ若者たちが、「自由に、なんでも描いていい」と言われて白いキャンバスの前に立つ。
キャンパスには、色とりどり様々なスタイルで「内なる風景」が描き出される。
彼女・彼らは、明晰に自分が描いた具象が表しているものを言葉にする。
「緑は希望。赤は悪いこと」
「青は気持ちいい、うれしい。赤は戦争、かなしみ」
「暗い色は昔の悪かった自分。黄色いドットは親からのアドバイス。その時はわからなかった。だんだんと明るい色、善悪の区別を学んだ今の自分。でもそこには黒いドット(失敗)が散らばっている」
筆だけではなく、手や足もつかう。動きのあるアクション・ペインティングだ。誰から習ったわけでもないだろうに。
わたしが好きだったのは、アレクサが描いたピンクの(たぶん桜の花びらがイメージされた)絵だ。最後に「愛」と描かれたことで背景となってしまったが「愛」を書き加える前の絵に感動した。
ハレーションする言葉たち
チャプター2では、彼ら彼女たちの肉声がコラージュされている。ものすごい情報量だ。
通常ドキュメンタリーでは、だれか主人公を設定して中心を定めて展開する。だが、この映画では特定の主人公はいない。
多くの若者(15名ぐらい)が登場するが、名前だけの紹介で国籍や滞在歴などのプロフィールは紹介されない。登場のしかたも、ランダムだ。だから、顔と声と言葉とそして描いた絵が断片的に印象に残る。
そして、膨大なことばは、相互に矛盾したメッセージを放つ。
・漢字がダメで学校はやめた
・嫌いでもイヤでも勉強はした方がいい
・頭の中がぐちゃぐちゃ。勉強してもふつうよりできない
・ポルトガル語を使ってはダメと言われた
・日本のルールに従うしかない
・「ちがう」からいじめやすい
・我慢すればいつか成果がでる
・高校に行かなくて後悔している
・いじめ、無視、死ね、名前をからかわれた
・先生に言っても「いつか治るよ」と何もしない
・自殺を考えた
・親は子どもが日本人とふれあう機会をふやすべき
・忙しくて親と話す時間がなかった
・日本人は親を大切にしない。ブラジル人は親を大切にする
・親と会話できていない。妹とも話していない。誰とも話していない
・家族はバラバラでもいい
それぞれ別の人がしゃべっているから矛盾していて当たり前なのだが、情報量に圧倒され、だれが何を言ったのかがわからなくなり、観る者の中で、ハレーションを起こす。
その結果、すべてのメッセージを包含した「ひとりの人格」がイメージとして立ち上がってくる。
この「矛盾」「混乱」「混沌」をすべて、今「ひとりの子ども」が体験してきているんじゃないか? どの外国ルーツの子どもであっても、共通して苦しんでいるものなんじゃないか? そう思わされる。
観た者の心に起きること
登場人物の誰かが「大変だったけど、乗り越えてここまで来た」と言えば、受けとめた側はそのひとりの成功事例をもって「よかった」と安心することができるだろう。
だが、この映画では一人ひとりの言葉がハレーションを起こし「ひとりの人格」が全てのメッセージを話しているような印象を与える。
わたしたちは「めでたしめでたし」と拍手して終わりにはできない。若者の「混乱」は今そこにある現実。受けとめたイメージを不安定な状態でジャグリングし続けるしかない。
ラストシーン、塗りつぶされるディストピア
ざわついた心を抱えて、映画のラストにたどり着く。
エリザが描いた絵が映し出される。
淡々とした声で説明される──
青は幼かった頃のしあわせな記憶。オレンジは日没。
赤は夜、悪いことはたいてい夜に起きる。人が人を傷つける。赤は血の色。
赤の中に描かれる人たちはみな黒く塗り込められている。表情はない。だれひとり信じ合えないから。
建物が燃えている。でもだれも助けようとしない。
中央に描かれた木には、美しい色が使われている。平和、宗教、太陽をあらわすシンボルが木の中にある。木は支配者を現し、支配者が美しいものを独占しているのだ……
なんというディストピアか。
人間が人間とつながれない、絶望の世界。それが少女が目に映るリアルなのだ。
カメラは絵が描かれた巨大なキャンパスを引きでとらえる。
キャンバスの前に突然、男が現れる。ビニールの服を着ている。非日常感。わたしは除染をする人を連想した。
彼は無言でエリザの絵を緑のペンキで塗りつぶし始めた(!)
「緑は、ブラジルでは希望=エスペランザの色」というナレーション。
キャンバスが、完全に緑一色に塗りつぶされて、映画は終わる。
単純に解釈すると、
「ディストピア(絶望の世界)を、「希望」で塗り替えよう」
という演出だろう。
だが、ハレーションする「混乱」を受けとめたわたしには、これがそんな単純なメッセージだとは思えなかった。
最初「このラストは暴力的だ」と感じた。
せっかく描かれた絵が抹消されたからだけじゃない。彼女の心が描いたディストピアを、他人が勝手に「希望」で塗りつぶしてしまっていいのか? これは暴力だという憤りだった。
後味の悪さが残り、なぜこのラストを映画の最後に置いたのかを考えさせられた。
こういうことかもしれない〜映画の企み
「映画が終わって、よかったよかったと言い合いたいんでしょ? でもそれって若者が真剣に描いた(発した)絵(メッセージ)を、「希望」とかいうふんわりしたよさげなものでおおい隠し、見えなくしまう行為とおなじだよ」
ラストシーンは、自分が安心するため、他人の苦難を美談に仕立て上げ、真の課題に蓋をする無責任なわたしたち(映画制作者も含む)へのメタ批判になっているのではないか?
外国人の子どもが自由に描く
アート
キャンバスの前で心のうちを語り出す
こういう映画だから。いくらでも美しくつくりこみ、心を揺さぶり、共感を生み出すことはできる。制作者はそういうアプローチを選ばなかった。
ナマの言葉をコラージュし、個人ではなく集合体としての「ひとりの人格」をつくりだした。
その子は混乱と混沌を抱え、いまこの瞬間を苦しみ続けている。
ラストシーンでは、「希望」によってディストピアが消滅する(表面的には)。
そのシーンは暴力的で、異様な印象を残し、観る者の心を攪乱し、予定調和を許さない。
見終わってから、わたしはずっと考え続けている。
こんなすごい映画でした。
以上。
マニアックな作品解釈なので、「カイパパ、どんだけひねくれているんだ!?」と思う方もいらっしゃるでしょう。そんな方こそ、ぜひ観ていただきたいです。対話しましょう!
【2018年2月11日追記】
上映会のやり方、料金表について追加記事を書きました。