親の障害受容には2つあって 「ありのままのわが子でOK」ということと「未だ傷が癒えない自分」は 共在する
親の、わが子の「障害受容」について、わたしが常々思っていることは──
受容には2つあって、
・「ありのままのわが子でOK」ということと、
・「未だ傷が癒えない自分」は、
共在する。
10年前にこんな記事を書きました。
カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 受容には2つある
100%受容することなんて目指さなくていい(ムリだから)。
最近、新入社員をみていて「障害がなかったとしたらのカイ」を幻視しました。不思議な感覚でした。それはかなしかったり、イヤだったり、今のカイを否定するものではなくて──ニュートラルな「もしも」をみる──不思議な感覚でした。
もしかしたら、いつのまにか「傷が癒えた」のかな? そう思いました。
長い間、2歳児くらいの子どもをみるのが苦手だった。
ちょうどカイの自閉症がわかった年頃の、あまりにも「視線が合って」「コミュニケーションがとれる」お子さんが驚きで、つらくて。胸のなかに空いている大きな穴を冷たい風が吹き抜けるような感じがしていた。
……でも、5年前くらいからだろうか、そんな葛藤は消えて、ちいさな子どもたちを素直に「可愛いな」と思えるようになった。テレビでけなげな幼児をみて、涙したり。
そうなって初めて、妻にも「実は苦手だった」と言えた。
そんなものなんだよ。
すごーく長い時間がかかる。
わが子のことは大好き。愛してる。ありのままでOK。
それでも、あり得たかもしれない子育てやじぶんが望んでいた家庭の残像は残るもの。ときには、かさぶたが剥がれて生々しい痛みが甦ることもあった。
だけど、それもいずれ、薄れていく。よい記憶や乗り越えてきた経験が、残像を上書きしていく。そして、その残像は、記憶の博物館に展示されるようになる。ふと思い出したおりに──眺めに行く、ぐらいに。ね。