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カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルの方から来ました

映画「梅切らぬバカ」〜自閉症を説明しない自閉症映画

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映画「梅切らぬバカ」を観ました。
ちらしにあるとおり、「肝っ玉母さんの珠子さんと、息子の忠(ちゅう)さん。親子二人のささやかな日常を優しく紡ぐ」映画でした。

観てよかったです。
わたしのように、自閉症の息子を持つ親だと、こういった自閉症を描いた映画をどうしても「リアリティがあるかどうか」と採点するような目で見てしまうきらいがあって、映画を映画そのものを味わうのが難しかったりするのですが。
リアリティもあって、「ああ、こういう人いるよな。こういうことあるよね」と思いながら、この親子に寄り添いながら、物語のなかに入り込むことができました。

「ささやかな日常」を描いているのだけれど、障害をもつがゆえの事件や悩みがあって、それが「わたしたちの」日常なんだよなぁと思うわけですよね…

以下は、ネタバレ含む考察になるので、映画をこれから観る方は、観てから読んでいただくとよいかなと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

映画「梅切らぬバカ」の特徴は、自閉症発達障害、知的障害といった障害名が一切出てこないところにあります。

映画のちらしをみても、忠さんの紹介は「几帳面で、馬好き」とあるだけで、自閉症とは書いていません。

そして、忠さんが、なぜグループホームに入らなければならないのか? グループホームとは何か?といった説明もありません。

これはもちろん意図的で、ことさらに「自閉症」や「障害者の置かれた状況」を説明して、啓発をする映画ではないのですね。
自閉症の家族などからすると、「もっと説明してわかってもらえばいいのに」と歯がゆく思うかもしれません。

なぜあえて説明しないのでしょうか?

思うに、特殊ではない、ごくふつうの家族として描いて、「ああ、こういう人は近所にもいるなあ」と、障害を知る機会のないごくふつうの町の人に感じてもらうためなんじゃないかと思います。

わたしは映画を見終わった後に、自分以外の映画館に来ている人たち(高齢者が多かった)が、どのように映画を観てくれたかが気になりました。
どちらかというと、「グループホーム反対運動」に心情的に近い(かもしれない)人たちが、「こんな反対運動をして、忠さんを追い出したらかわいそうだ」と思ってもらえたらいいなと淡い期待を持ったのです。

高島礼子が演じる街中にある馬の牧場主は、馬を大切にしながら、障害者を排除する側に回る。牧場と、グループホームが、同じ「迷惑施設」と地域住民から思われているからこそ、よけいに強くグループホームに反対する矛盾と葛藤がこの人にはあるのかもしれない。
けれども、映画の中では高島礼子の心情は語られず、表情や行動から想像するしかありません。最後まで、彼女の「回心」のようなものは描かれず、忠さんと馬と高島礼子の微妙な対面で、映画は終わります。

ありがちな感動させたいのなら、高島礼子が理解者に変わって、忠さんに歩み寄るシーンで終わるドラマの作り方が考えられます。90分間つかえば「感動」もつくれる、があえてやらない──それが「77分間」という潔い短さ。

着地点が描かれない。

余韻を残す。

だから観た者は考え続けます。

この後、忠さんと珠子さんはどうなるの?
反対運動は続くの?
牧場主は忠さんを認めてあげないの?
じぶんだったらどうする?
どんな街だったら、住みやすいだろう?

 

塚地武雅の演技は自閉の人の生真面目さと応用の難しさ、風変わりさとおかしみをあたたかく伝えてくれました。
そして、加賀まりこ。存在感がとにかくすごい。彼女の語ることばの説得力によって映画が推進されていく。俳優の実力は、そこにいればわかってしまうものなのだなと感服しました。

最後に、加賀まりこさんが伏見ミリオン座に送ってくれたメッセージを載せておきます。

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伏見ミリオン座へご来場の皆様へ

私の息子「忠さん」を皆様が好きになって
くれたらいいな… それだけを思いながら
演じた映画です。
街で、自閉症の方に出会ったら、微笑んでくださいね!
           加賀まりこ