カイパパ通信blog

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルの方から来ました

差別と新型肺炎

中国で流行が始まった新型コロナウイルスによる肺炎をきっかけに、世界各国で、アジア人差別が助長されているという報道を目にします。

日本国内では中国人への口さがない言説をSNSで見かけますし、日常会話でも「中国人の団体とすれ違うと緊張する」などと話す人がいます。それは民族差別なんですが言っている本人に差別の自覚がない。「差別ではない、ウィルス感染を避けるためだ」という意識でいるのでしょう。

各国での差別と日本国内での差別は、合わせ鏡になっていると思いませんか?

海外に出てわかることは、日本人と中国人で外見では区別がつかないのでアジア人(または「中国人」)と一緒くたに扱われるということ。差別偏見は、個人を見ずに属性で一律の扱いをするものだからです。

差別をする人、差別を許容する人は、「自分が差別される」ことも認めていると言わなければならないと思うんです。「ナントカ人に対する差別はOK」というわけにはいきません。自らが差別されたくないのなら、すべての差別を認めないと決意しなきゃならない。

何か事件を見聞きした時、ついつい属性(カテゴリー)で考えたくなりますが、そういうときは「合わせ鏡の向こう側をのぞき込む」努力が必要だと思います。

武汉加油武漢がんばって)

『マリー・アントワネットの日記』吉川トリコ 読了

傑作。泣いたーまさかの落涙RKRIーー。小説っていいなー。コレぜったい読んだ方がいいヤツ。。。(文体影響ウケまくりぃぃー)

来週1月26日(土)には、作者である吉川トリコ先生と直接お話しできるイベントが名古屋で開かれます。当然参加!

1月26日土曜日 午後4時半から6時半まで
予約:不要
トーク参加料: 1500円
会場:ぶくパル
〒460-0007 愛知県 名古屋市中区新栄2-2-19 2階
詳しくkwskは↓

www.facebook.com

 これから読む方へ。Amazonリンク貼っておくね☆

マリー・アントワネットの日記 Rose (新潮文庫nex)

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マリー・アントワネットの日記 Bleu (新潮文庫nex)

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やまいだれ

同病相憐れむ、というのは多くの場合ネガティブにとらえられますが。アラフィフにもなると同年代は誰しもどこかしら痛んできていて、久しぶりに会ったときには「病トーク」が一番盛り上がったりします。

病院の待合室でくりひろげられる「病気自慢」? あんなのホント意味ないよなーと思っていたけれど。自分が「病トーク」をしてみると、これがどうしてどうして、強烈なカタルシスが得られる。スッキリする。笑いすぎて涙がでるくらい。

何でかな? と考えた。それはふだんの生活・仕事では、「健康100%」であることが無意識の前提になっていて、痛いとか、めまいがするとか、苦しいとかいった内面は表出できないことになっている。「病トーク」はその抑圧をとりはらえる。実際に口に出してみると痛みがどれだけ自分の%を占めていたのか?と驚いたりする。

ぶっちゃけてみたらいいのかも。そして仲間の痛みにも耳を傾ける。「健康」ばかりじゃないよ。

僕らは降りていく過程の存在。暮れていくソラも美しい。

16年目のブログ記念日

カイパパ通信をlivedoor Blogからはてなブログへ引っ越して、1年が経ちました。頻繁に更新もしなかったし、特に大きく話題になるような記事も書かなかったけど。「15年間続けたブログが手元にある、いつでも書くことができる」ということが何よりも財産だと思います。
16年目もよろしくお願いします。

去年の今日書いた文より

新しいブログを始めるって、僕にとってはとっても年末年始らしい。14年前の今日、livedoorブログを始めた。あの時の感触を今も思い出せる。こわさとうれしさが半分半分。ドキドキわくわくしていた。
僕はブログを始めて人生が変わった。転職したとか、お金を儲けたとか「これがこうなった」という単純なできごと単位ではなく、人生の角度が変わったんだ。
最初は小さな方向転換が、大きなちがいを生み出した。
本当に、たくさんの人たちと知り合って、言葉を交わした。すごく仲良くなって、終生の友と呼べる仲間たちと出会った。気まずくなって、離れてしまった人のことも覚えている。
きっと僕が知らないところでも変化を及ぼしていたこともあるだろう。
そういう14年間だった。それぞれの人生で14年の時が流れたんだという事実に新鮮なおどろきを覚える。
ブログをやめなくてよかった。読んでくれたみんな、ありがとう。

 

kaipapa.hatenablog.com

イメージで、感覚過敏を想像する手がかり

soar-world.com


感覚過敏は当事者じゃないとわからないものですが、上の記事のように絵やイメージで表現されると、想像する手がかりができますね。
「まぶしい」ではなくて「「画面のむこうから、夜の工事現場の照明が自分に直撃している」感覚……
「チクチク」が「知らない人にずっと首をつかまれている」ような痛み……

感覚過敏は五感全てで過敏かというと(そういう人もいるが)、視覚が特に敏感だったり、触覚が過敏であったり、そこにもでこぼこがあるのですね。

たとえば漢字帳、英語ノートなど線が入ったノートが苦手で、学生のころは基本的に無地の自由帳を使用していました。蛍光ペンでラインを引いた文字、パソコンやスライドの画面にも苦手を感じています。

白い紙の色がまぶしくて苦手だ、という人もいますね。目をつきさす痛みがあるのかもしれません。

うちのカイも、服のタグが苦手で絶対に切ることを要求します。以前は自分で引きちぎっていましたが、最近はハサミを持ってきます。
言葉で表現ができない人であれば、様子から、まず感覚過敏の可能性を考えることが必要だとあらためて思いました。

NPO法人ぷるすあるはの仕事は、デザインがよいなあと前から思っていたのですが、こちらのチアキさんが描かれていたのですね。チアキさんはこの記事で感覚過敏を持つ当事者として取材を受けてらっしゃいます。私は、チアキさんの絵が好きだったんだなあ!というのがうれしい発見。

このダウンロード可能なツール集とか素晴らしいですよね。

kidsinfost.net

「NPOと編集」を読んで「NPO批判」について考えてみた

NPOと編集。

huurinntei.hatenablog.com

なるほど。この文章を読んで、近頃考えてきたことがつながった。

「NPOが会社と変わらなくなっている」*1とか「"支持"=資金、にするために、(あざといほどに)"感動"を奪い合っている」といった批判は当たっているところがあると思っている。*2

それよりもっと根源的な批判として、行政が公として取り組まないといけない課題を、NPOが個々に(狭い範囲で)解決してしまうことで、構造的な問題が覆い隠されてしまう*3(社会の課題がまるで「不運だった」個人への「施し」でなんとかなってしまうかのように)(それによって、課題は自己責任の枠にはめ込まれてしまう)(行政はNPOに甘えて「おまかせ」にしてしまう責任放棄が起きる*4と言われることがある。

だが、それがNPOの「罪」なのかと言ったらそうではない。

(引用1)
わたしたちNPOの活動は、社会の中のちょっとした違和感から始まります。世の中で「当たり前だ」「仕方がない」と思われているもの、「誰かが我慢すべきだ」「自己責任でしょ」と言われてきたもの。そうした言葉をそのまま受け入れることなく、「一部の人の問題」「個人の責任」は実は「社会の課題」なのではないかという問い直しをするのがNPOという存在であるはずです。

同時に「社会の課題」の解消・解決を図るという営みは、決して一人でできることではありません。人や組織をはじめとする様々な社会資源をつなぎ、役割分担をしながら、社会に新たな機能を生み出すこともNPOの大きな社会的な役割です。

そう思うと「NPOとは、一人ひとりの問題意識と目指す未来(理念)を軸にして、社会を再編集する存在である」と言い換えることもできそうです。

この文章で語られているように、NPOは社会の見えにくい課題を発見して、「ここに課題がある」とのろしをあげる存在だ。そして「課題がある」と指摘するだけに留まらず、自ら(できる範囲で)解決にトライしてみる存在だ。
行政*5が、まだ課題として認識していない、あるいは解決に取り組む手がかりを見つけていない時に、いち早く社会に対して知らせる役割を持つ、カナリアであり、開拓者である。

批判を受けるのは、NPOが「自己完結」してしまうときだろう。

「編集」は何のためか? 「外(他者)」へ届けるためだ。「読者」は外部にいる。外部に届けるのは何のためか? NPOだけでは解決できる範囲がごく限られているから、仲間を増やし、課題を社会化して、もっと広く平等に課題が解決される社会にしていくためだ。

冒頭に書いたキラキラNPOに対する批判が当たっているのは「自己の団体(と活動)のためだけ」に、支持を集めようとしている場合だ。
事業化や仕組み化は何のためか? 
自己の事業を拡大するためだとしたら、その仕組みは自団体の「強み」になるから、他団体(&行政)にはシェアしたくない。ビジネス的志向(思考)をすると、そうなる。支援している人びとが、自団体の「顧客」に見えてきたら、もう危ない。

「編集術」は手段なので、自団体のための「感動」を調達する目的に使うことができる。それはそれで強力に効果を発揮するだろう。だからこそ「目的は何か」を問い続けなければならない。

以下に、引用記事のラストの文章を引用しておく。とても重要なので。
「NPOとは、もともと<弱さ>から出発するものであった」ここがぶれなければ、迷ったとしても道を誤ることはないのではないか。

(引用2)
編集術はその相互コミュニケーションの方法であり、NPOの活動が生む価値を裏付ける実践的な技術です。

NPOとは、もともと<弱さ>から出発するものであったはずです。“常識”にかき消されてしまいそうな小さな声に耳を傾け、それをそのままにしてはおけないと思い、その小さなか細い声の中にこそ未来へのヒントがあると直感した“普通”の人たちが立ち上がったことが、多くのNPOの原点ではないでしょうか。

イシス編集学校の校長である松岡正剛氏は「弱さによって相互作用が生まれる」「弱さこそが真に過激なのである」(※)と言います。NPOでは、よく経営基盤や組織基盤の脆弱さが指摘されますが、その<弱さ>があるからこそ、多くの人々の力を借り、小さなできることを持ち寄り、それが地域や社会で新たなネットワークを形成し、誰かの居場所や役割を創ってきたという歴史があります。それは小さくとも、過激で鮮烈な出来事だったのではないでしょうか。そこから新たな経営基盤や組織基盤のあり方を生み出すのがNPOだと思うのです。

表層的な強さを求めることなく、<弱さ>からはじまる相互編集を目指して。NPOにこそ編集力が必要なのです。

 

*1:会社も社会課題を解決することで利益を得る存在であるので、社会課題を解決するのはNPOの専売特許ではないが、会社でできるなら会社でやればよいとも言える。

*2:「感動(共感)」の奪い合いは日本に限ったことではないようだ。たとえば、テロ・紛争解決活動家 永井陽右氏の連載コラム「共感にあらがえ」第3回加速する“共感の奪い合い” 国際協力の場で広報のプロが重宝されるワケ

今、共感を獲得すべく社会の様々な場所で競い合いが起きている。その争いは熾烈(しれつ)を極める。共感がある種の指向性を持ちやすい感情である以上、その限られたパイ(人々の関心)をどう獲得するかという構図になる。

*3:個別具体的に見れば、NPOの活動によって救われた人がいる。そのことは素晴らしい。限られた資源しか持たないNPOにすべての人を救えと要求するのは間違っている。だが一方で、他に同様の状況の人が取り残されていることを忘れさせる状況をNPOがつくりだしていないだろうか? それは人間の認知の仕組みのせいでもあるが、一つの好事例(美談)を聴くと、満足して他の未解決ケースに関心がいかなくなってしまう傾向がある。「素晴らしいNPOだ。あのNPOがあってよかった(めでたしめでたし)」で思考停止してしまう。個別のNPOにしてみれば「自分たちだからできた」と評価される方が、行政の委託も受けられるし、寄付も集まり、自団体の存続のためにはプラスになる。

*4:課題が残っているにもかかわらず、行政が責任放棄する手法の一つとして、議会からの追及に対し、好事例を答弁することで課題解決が進んでいるかのように、アリバイ的に見せる「編集術」がある。

*5:「行政」と書いたが、行政を動かすのは政治であり、NPOが働きかける先は、政治と行政双方である。それってNPOに限られない、民主主義の実践ってコト

あなたが住む街へ〜羊毛とおはな

年賀状も終わって、部屋をあたたかくしてのんびりと過ごす冬の午後、
羊毛とおはなを聴いている。

羊毛とおはなは2013年にライブを観に行っている。当時、ボーカルのはなさんは豊橋に住んでいて「家族にごはんを作って出てきました」と話していた。アーティストもぼくたちも街で暮らしている、地続きなんだなとうれしく思ったことを覚えている。

その後、はなさんの訃報を聞いた。
ブログで病気療養されているとは知っていたけれど、まさか。

それから羊毛とおはなが聴けなくなった。
聴くと思いだしてしまうからだった。
ステージの上で、羊毛さんの衣装選びについてダメ出しをして、逆襲にあい、ぷっとふくれる彼女。なんともふつうで、かわいらしかった。
せっかく友達になれた人を突然亡くしたような気持ちだった。

profile | 羊毛とおはなオフィシャルホームページ

このページの一番下に、はなさんが書いたファンへの最後のお手紙があるのは知っていた。でも、読んでいなかった。今さっき読んできた。あのライブツアーのときには、もう再発していたんだね。それなのに、あんなにふつうで……

どの歌を聴いても、あたたかくてやさしい気持ちになれる。

一度聴いてみてもらえるとうれしいです。

壊れかけのオモチャを出して
たたいてみても動かない
電池を入れ替えたりしても
あの頃とちがう

だいきらいと口に出しては
いつもとおなじ空回り
ほんとのことはいつにも増して
鏡にも映る

あなたが住む街へ
あなたが住む街へ
虹がかかる前に

youtu.be

職場環境を劣悪にしてはいけない理由

いまどきオフィスに空調がない職場は少ないと思う。だが、設定温度が高すぎたり低すぎたり。あるいは一定の時間になると切れてしまったりするところはある。

炎天下、水も飲ませずにしごく部活動では、能力アップという練習の本来の目的は失われ、ただただ「耐える」「その場をしのぐ」ことが目的となる。それとおなじだ。

「我慢をして耐える」こと自体にエネルギーを取られるから当然のことながら能率は落ちる。しまいには「我慢」が給料の対価と思うようになってしまう。

空調の節約で浮くコストと業績に与える影響のバランスが見合わない。

何よりも「この会社は人(じぶん)を大切にしていない」というメッセージがすり込まれることがこわい。職場環境を整えることは社員を甘やかすことではない。業績やコンプライアンス推進の基本だ。

 

外国人労働者を増やすことで、地方衰退の解決はできない。

外国人労働者を増やすことで、地方衰退の解決はできない。
鳥取県知事が法務大臣に「外国人の都市部偏在解消を」要望した記事を読んで、その思いを強くした。

求人が多く、労働条件がよい都市部に人が集まるのは「重力」が働くのとおなじように自然な流れだ。「地元」をもたない外国人ならなおさらのこと。人の偏在は富の偏在とイコールだ。富の偏在をならさずに、それでも人の偏在をならすには「移動を強制」するしかない。

技能実習生が地方に多い(地方にとどまっている)のは、技能実習生は就業先を選択できない仕組みにしているからだ。辞めたら帰国しなければならないため、労働条件が劣悪でも逃れられない構造になっている。逃げ出せば在留資格が取り消され、不法滞在の犯罪者になってしまう。就業先を変えたかっただけなのに。*1
新しい在留資格「特定技能」は、就業先は自分で選べるところが大きな改善だが、「外国人労働者を地方におくれ」という主張が政治的に受け入れられると、就業先選択の自由が制限され、技能実習制度の二の舞になりかねない。

根底に流れている発想が、外国人を「人格のない家畜」か何かのように考えていないか?と疑問に思う。だから「操作可能な存在」として管理(コントロール)しようとする姿勢になる。職業選択の自由は(居住移転の自由も)基本的人権であり、国籍にかかわらず認められるものなのに。

*1:2017年11月施行の外国人技能実習法によって、外国人技能実習機構が転籍を支援する仕組みが作られた。改善されるか注目したい。

仕上げはLED

机まわりの環境整備の仕上げは、天井ライトのLED化。

これも興味はありながら、面倒なのかなと思って躊躇していた。最近職場の照明がLED化されて、あまりの明るさに衝撃を受け、重い腰を上げた。

電器店で聞いてみると、今の照明(蛍光灯)のソケットのアダプターを変える(アダプターは付属している)だけで簡単に取り替えができる、値段も手頃になっているとのことだった。

今朝、取り替えてみた。「LED化」なんて大げさなものではなくて単なる照明器具の交換だった。脚立さえあれば実に簡単な作業だ。蛍光灯に比べて、隅々まで明るい(なので、掃除整理整頓をちゃんとしなきゃと思う)。色を「白い色」から「暖かい色」に段階的に調整できるところが一番気に入った。「白寄りの暖かい色」がとても自然で目にも優しい。

LED化してよかった!

こんなに簡単なら、もっと早くやっておけばよかったな……と毎度思ってもしようがないことを思う。でも、遅すぎることはないので、他の部屋の照明も順次変えていこうと思う。

机まわりの環境を変えてみる

20年使ってきた椅子を変えることにした。ひとからいただいた椅子で自分で選んだわけではない椅子だったが、物がしっかりとしていて、今後も数十年平気で使えそうだが、長時間座ってパソコン作業をしたりするにはあまり適していなかった。

何度か買いかえることを検討したが、椅子の候補が多すぎて、選べず。そのうち熱が冷め、「ま、いっか」となっていた。

でも、最近、座っているのがしんどくて、すぐに横になりたくなるようになってしまって。横になって、例の超快適な受け身時間を過ごしてしまう。しばらくはそれでよくても、やっぱり人生を無駄にしている気がしてきた。もう一度、集中して本を読んだり、考えたり、書いたりしたいと思った

形から入るのはいつものクセで。座っていられないのは椅子のせいと考えて、椅子を新調した。今回はあまり多くの要素を考えすぎず、「ゲーミングチェア」のジャンルで評判が良く、予算内の候補から決めた。

組み立てが予想外に大変で、妻に手伝ってもらって(正しくは日曜大工が得意な妻を手伝って)完成させた。部屋に入れてみると想像よりも大きくて。座ってみると、今までと違いすぎて、どんなポジションを取ればいいのかわからず、初日は困惑して終わった。(「高い、失敗の買い物をしたかも……」と思った)

遅ればせながら、正しい座り方をウェブで調べた。ヘッドレストやランバーサポートの位置やリクライニングのポジションを、作業している時あるいはリラックスする時に応じて変えるといいらしかった。実際に色々と試している途上だが、この椅子の「良さ」がわかってきた。

椅子の新調に合わせて、パソコンスタンドを導入した。自分は15インチのMacBook Proをメインに使用しているのだけれど、外付けのキーボードとTrackPadと併用して、デスクトップ機のように使用してみることにした。スタンドの下のスペースに、スピーカーやケーブルを収納して机が広く使えるようにした。

何も変えなければ、そのまま惰性で行けてしまう。変えることが全てうまくはまるわけでもないけれど、少し、わくわくしている。じぶんの部屋だもの、じぶんの好きなように変えていいよね。

#平成最後のと聞くたびに

#平成最後の。事実を述べることがそれなりに新鮮さを伴っている自然発生した流行語(すぐに飽きてしまいそうだけど)。

#平成最後のと聞くたびに、思い浮かべるのは「昭和の最後」のことだ。
1989年1月、僕は異国で暮らしていた。日本で当時「自粛」がどんなだったか、想像はできても、実感をもつことができない。

新しく元号が何に決まったのか、正確に知るのは2週間も後だった。当時は、インターネットもなく、外国のメディアでは天皇が変わったことしかわからなかったから。

ホストファミリーが「テレビでPeace Achievementと言っていたよ」と教えてくれたが「?」しか浮かばなかった。

後から「Heisei」=「平成」と知って、「Peace Achievement=平和が達成された」とタネ明かしをされたみたいに思った。クイズに正解できなかった気まずい感じをひとり覚えていた。

昭和の最後に、Peace Achievementとは何か? ぐるぐる考えていた。

究極の受け身(超快適☆)を脱出するために

最近ブログでメモみたいな断片を綴り始めた。「記事のリンクを貼って何かにもの申すみたいな」(自分のFacebookでのスタイル)が何か違うとしんどくなってきた。気に入っていたFacebookがプライバシー問題や強欲な社風を知り嫌気がさしたせいもある。

かわりにYouTubeに耽溺して(Premiumが超快適☆)、感情を動かされ泣いたり笑ったり「させられている」この何時間もの体験はなんなのか?
YouTubeでレコメンドされるプレイリストをただ流している。どの動画を見るかさえ選んでいない。究極の受け身。YouTubeは僕の好みを熟知しているから極めて心地よい。

SNSから遠ざかって、何も吐き出したいことがないわけではなくて。頭の中にはいろいろなことばが浮かんできてそれをあーでもないこーでもないと転がして「あーそうか」と腑に落ちることもある(腑に落ちないことの方が多い)それはお風呂に入っている時とかに起きて時間を忘れてあやうく遅刻しそうになったりする。

受け身を脱出するために書こうと思う。書くことは、自分の頭で考えることだ。自分の頭でなにが起きているか、自覚的に気づくことだ。

クラプトン

→後悔のない人生なんてないし「終わりよければ全てよし」と言えるかどうかはその時になってみないとわからない。起きたことすべてがミルフィーユみたいに薄く重なって時の経過とともに化石になって消せない存在になる。それが生きていくからだの中に残っているんだ。化石になっても苦しみは苦しいが(あの時ほどは切実じゃない)。それが「あの時は生きていたな」とやさしく思えるようになったり。暗黒にみえたことが唯一無二の生の実感だったりもする。点と点が線で結ばれる必然を感じられたら幸せだ。だけど実際には、起きたことは残ってしまうから消せないだけ。地層の上に積み重なっていくからしかたがない。後悔のない人生なんてないし「終わりよければ全てよし」と言えるかどうかはその時になってみないとわからない。→