カイパパ通信blog

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルの方から来ました

1990年代まで強制的な不妊手術が行われていた事実を前にして何を思いますか?

手をつなぐ育成会の声明文を紹介したいのですが、まずその背景を説明します。

旧優生保護法によって強制的な不妊手術が行われていた

日本には優生保護法という法律がありました(1996年に改正され、母体保護法となった)。
優生保護法(法文:衆議院HP)では、第4条に次のように定められていました。

(強制優生手術の審査の申請)
第四条 医師は、診断の結果、別表に掲げる疾患*1に罹つていることを確認した場合において、その者に対し、その疾患の遺伝を防止するため優生手術を行うことが公益上必要であると認めるときは、前条の同意を得なくとも、都道府県優生保護委員会に優生手術を行うことの適否に関する審査を申請することができる。

 つまり、本人や家族らの同意がなくても都道府県の審査会が認めれば手術ができることとされていて、実際に手術が行われていたのです。その数は約2万5千人に上り、うち約1万6500人は同意のないまま強制されたとされています*2 *3 

全国手をつなぐ育成会連合会が出した声明文を読んで

zen-iku.jp

この問題は私たち知的障害のある人の家族にとっても大きな課題を突きつけていると考えます。不妊手術の強制は、以前から問題視されていました。でありながら、私たち自身もこの問題に向き合ってきたとは言えません。

地域で暮らしていくための福祉サービスも未整備で、偏見や差別も根強い時代の中で、周囲や専門家から手術を勧められ、首を縦に振った家族も少なくなかったはずです。

そうした実態はある意味タブー視され、私たちの間でも共有されることはありませんでした。

この部分にわたしは注目しました。
手をつなぐ育成会は、知的障害の子を持つ親を中心とした団体です。
「非は国にある」と突き放して言い切ることができるのならよかった。でも……この法律の規定は1996年まで生きていました。直接、手術を「許容した」家族もいるわけです。そして、それが誰なのか、当事者以外に知ることはできません。だから、議論することもできなかった。この逡巡を想像する時、「親」が常にもっている障害のある子に対する加害性を意識しないではいられません……。
しかし、痛くても事実を究明して、過ちをくりかえさないことが求められます。

手をつなぐ育成会の声明文を再び引用します。

障害のある人の尊厳を大きく傷つけてきた不妊手術に対し、国はその過ちを認め、全容の解明とすべての対象者への謝罪・補償を行うべきと考えます。
一つの命としてこの世に生まれ、さまざまな困難に直面しながらも誰かを愛し、家族をつくり、時間を共有しながら人生を全うしていくことは、誰にも認められるべき生き方です。
そこに、障害の有無など関係ありません。

ぜひ全文(PDF)に目を通していただき、考えていただけたらと思います。 

*1:別表の疾患

別表   (第四条、第十二条関係)
第一号 遺伝性精神病     精神分裂病
      そううつ病
      てんかん
第二号 遺伝性精神薄弱
第三号 顕著な遺伝性精神病質     顕著な性慾異常
      顕著な犯罪傾向
第四号 顕著な遺伝性身体疾患     ハンチントン氏舞踏病
      遺伝性脊髄性運動失調症
      遺伝性小脳性運動失調症
      神経性進行性筋い縮症
      進行性筋性筋栄養障がい症
      筋緊張病
      先天性筋緊張消失症
      先天性軟骨発育障がい
      臼児
      魚りんせん
      多発性軟性神経繊維しゆ
      結節性硬化症
      先天性表皮水ほう症
      先天性ポルフイリン尿症
      先天性手掌足しよ角化症
      遺伝性視神経い縮
      網膜色素変性
      全色盲
      先天性眼球震とう
      青色きよう膜
      遺伝性の難聴又はろう
      血友病
第五号 強度な遺伝性奇形     裂手、裂足
      先天性骨欠損症

*2:参照:神戸新聞NEXT社説2018年1月31日

*3:参照:岩波書店「科学」1997 VOL.67 NO.10

やっぱりあいちコミュニティ財団のことを議論してファンドレイジングを考えようよという返信の記事

yoshimi-deluxe.hatenablog.com

うん。石黒好美さん、よく書いてくれた! とひざを打ちつつ、胸をかきむしりたくなるというアクロバティックな葛藤を引き起こす誠実な文章です。

石黒さんはこの文章で「あいちコミュニティ財団のことは関係者やその周りにいる人だけではなくて、全国のファンドレイジング業界関係者みんなに問題を投げかけているんじゃないのー?!」と問いかけています(超訳)。

では、その投げかけている(普遍的かもしれない)問題とはいったい何か?ということを、わたしなりに考えてみました。

利益追求が第一ではない(とされる)非営利組織には、
「志」という美しく輝く御旗によって覆い隠されている「やりがい搾取」(たとえば、法令違反や能力あるいは業績に対してバランスの取れない対価、ハラスメント)が、
高い確率で存在する──

実態のことかなと思いました。

この(どこにでもある。ほんとよく見かける。いや他人事じゃないよねマジで、な)実態を、あいちコミュニティ財団は、典型的なかたちで露わにした。

だからこそ、「地方のイチ財団がヘタを打った」と等閑視せず、中央のハイスタンダードな皆様方におかれましても、ぜひ正面からご議論いただけないかとそう思うわけです。

 

【追記】

実は、引用記事の中で反応したのは脚注部分──

*1:ちなみにFRJ2018では「ファンドレイジングの7つのジレンマ~ワークショップで考える、エシカル・ファンドレイジング」というセッションがあったようです。「エシカル・ファンドレイジング」という言葉が衝撃だったんですが「エシカルとは言えない面も現状、ある」っていうことをちゃんと認識することって大事だなーと思いました。

このセッションでは、日本で一番存在感の大きい団体の寄付の原資がギャンブルの売り上げ(の一部)であることなどについても議論されたのでしょうか ?

かさぶたはいつか癒える?〜心の傷は放っておいても治らない

印象的な記事に出会いました。

plus-handicap.com

引用します。

完了していない感情、心の傷は放っておいてもなくなりません。突然のことで、苦しみから一時的に逃れる、悲しみに暮れる暇なんてないときがありますが、そんなときは、いわば冷凍保存されます。放っておいても消えてなくなるわけではなく、解凍する機会を必要としているのです。 

だから、周りの人の手を借りたり、迷惑をかけたりしながら、表に出して治癒の過程を進んでいきましょうという内容なんですが。

わたしは元ブログ「カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル」で、親の「昇華されない感情」=痛みの記憶について何度か語ってきました。

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 痛みの記憶〜語ること

この記事では、親が子どもが生まれて障害がわかってどう感じたか、今の想いについて語るペアレントトークについて語りました。

こうままさんが、ある時、「傷は治っても、〈痛みの記憶〉は残っている」とお話されていて、ああそのとおりだなと思いました。
私が講演をしていた時、いつも感じていたのは、「せっかく固まったかさぶたを、思い出すことで、かき壊しているような気持ちがする」ことでした。
そこに「傷はない」のだけれど、「痛みの記憶」が残っている。


今は、元気に笑っていても、
一皮めくれば、苦しみや痛みはまだそこにある。

話すことは、「あの頃」のことを、追体験することですからね。 
「伝えよう」と努力すればするほど、痛みがよみがえってくるものです。 

人前で子どもの障害について話せるような親は、既にいろいろなことを乗り越えてきています。その過程で、とてもぶ厚い鎧(よろい)のような「かさぶた」を身につけてしまっています。それは見た目、強くてきらきらして輝いている頼もしい笑顔だったりします。

だけど、たいていは、がんばりすぎちゃっているんですよね。危うい。

この記事の続編で、「純粋なペアレンツ・トーク」という記事を書きました。

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 純粋なペアレンツ・トーク

ここで伝えたかったことは、ペアレンツトークはいったい何のためにやるんだろう?ということです。

「こわれやすい、宝物(わが子)をあなた(支援者)の手に託すのです」

という、信じて、託す、捨て身な「願い」──


だから、受け取ってもらえず、拒絶されたとき、
誤解され、わらわれたとき、
何かが、砕け散ったような、衝撃を覚えるんだろうな。


結論。

この特別なメッセージは、あて先も特別な人のためであるべきなんじゃないかな、
と思う。

この子たちを、託す大切なあなたへ

わたしの思いは届いていますか?

親と同じ思いを持って、子に接してもらうことは本当に難しいことだけど、少しでも近づいて欲しいから、かさぶたをはがすような辛い思いをして、過去の記憶を蘇らせながら話すんだよね、と。

そして、カイが18歳になった今、わたしが思うことは、心の傷は放っておいても治らない、今までいろんな場所で多くの人と語り合ってきたこと、またブログなどで文章にしてきたことは、わたしにとっては治療だったんだなということです。

ひとりで心の中に隠しこんでおくよりも、外に出して、じぶんでも「目に見えるかたち」にしてみる。
そうすると、呪わしかった感情が、逆に「きれいだな」とか「つらくて泣いていたじぶんが愛おしい」と許せるようになる。
許せると、今度は再びその痛みの記憶を大切なものとして抱きしめ直すことができる。そんな気がします。

だから、「話をしよう。聴くよ」と言い合える安全な場があるといいなと思います。

 

この一瞬が1000年の時を超えて、伝わる〜映画『ちはやふる -結び-』

ここのところ映画づいています。前記事に続いて映画「ちはやふる -結び-」の感想を書きます。

chihayafuru-movie.com

何周も読み返している漫画「ちはやふる」の映画化です。原作ファンとしては、「上の句」、「下の句」に続いて、「結び」も観ないわけにはいかない。公開2日目に観てきました(楽しみにしていた!)

原作はまだ完結していません。だから原作ファンにとっては、原作の膨大なエピソードをわずか2時間の尺でどう「結び」にするのかが関心事。まさか、原作を追い抜いて結末まで見せちゃうの?とかね。

実際に観て、いやぁこの手があったか!と思うことが多々ありました。話したいけど、ネタバレになるので公開中の今は控えておきますね。

以下、ネタバレにならない(と思う)範囲で感想を書きます。

この映画は、原作ファンか広瀬すず、野村周平、新田真剣佑のファンしか観ないかもしれませんが、「一瞬を切り取った歌が、1000年の時を超えて、今この瞬間に伝わる」尊さを、観る者にストレートに伝えてくれる良作です。
「じゃあ、今わたしが生きている一瞬も、もしかしたら1000年後にも残るような尊いものなんじゃないの?」と。そして、その一瞬は青春の時期だけじゃないと思わされる。

40過ぎても50になっても。今の一瞬は尊い。

そして「結び」の何がよかったかっていうと、真島太一の映画になっていたこと。わたしは、漫画でも太一がどんどん好きになっているから。
映画の方が、周りの働きかけによって、太一がはっきりと気持ちの表出を導かれていて、わかりやすくなっている。(周防さん、漫画とキャラ違うくないか?でも賀来賢人良かった)

何度も「バカ太一~!」と心で叫びながら涙をこらえて観てました。

なんかいつもと文体もちがう、ファン丸だしな記事になりました。まいっか、ファンだから。

#ちはやふる結び

 

映画『15時17分、パリ行き』で描き出されるヒーローはベタなのかネタなのか?

3月11日に映画1517分、パリ行き」を観てきた。わたしは、過去のことを思い出しながら観た。

wwws.warnerbros.co.jp

まずこの映画、短い。さすがイーストウッド監督、90分間ムダなくいろんな感情をわきおこしながら、走り抜けていく。列車の疾走感が全編通じてあった。

ミスフィットな子どもたち、レッテルを貼ってすぐに排除しようとする学校。
母親たちが、一貫して子どもを愛しているのがよかった。

ラストシーンでは報われた。
要領わるくて、頭もいいとは言えない。それでも、「平和の礎」になりたい、人を救いたいという思いを失わずに大人になって。平凡でささやかな、「善をなせ」という責任感。ヒーローと呼ばれるのが、とてもくすぐったそうな3人だった。

わたしは高校生の時にアメリカに留学していた。空気感(主人公3人のうち2人は従軍している)がわかる部分がある。

アメリカの公立高校には、授業で軍に入るためのプレクラスみたいなものが選択できた。ある日突然クラスメイトが軍服を着て教室に入ってきて授業を受けているから、「どうしたの?」と聞くと、「今日はアーミークラスがあるから」という。
「卒業後自分がアーミーに入るから今からクラスをとっているんだ」と答えた。

アメリカでは、大学に行く学費を稼ぐためにまず軍に入って数年間軍務に服して、それから退役して進学したり、仕事をしたりする人がいて、そういうキャリアコースを学校でも勧められたりする。
友達と話していて、すごく軍に入りたいわけではなくて家庭の経済状況からやむなく、という感じも感じたりした。

日本人にはわからない感覚だが、学校に軍のポスターが貼ってある。進路の1つとして軍がある。
だから、この映画の主人公たちも、使命感に燃えて軍人をやっているわけでもない。だが、結果的に居合わせた場面で、行動ができてしまった。映画は、「なぜ彼らが行動できたのか?」を謎解きするような構成で作られている。時に、聖書の文句を引用するシーン、子どもの頃の夢や挫折、訓練中の向こう見ずな行動をとるエピソードなどが挟み込まれている。

だが、そのエピソードのひとつひとつが「軽い」のだ。どこにでもありそうなごく平凡なできごとに過ぎず、観る者に強い感興をひきおこすことがない(そういう演出になっている)。

イーストウッド監督は、「平凡さの中にある勇気は、このような日常や人生から生まれるのだ。彼らこそが真のヒーローだ」とベタに主張しているフリをして映画もそのようにプロモーションしながら、「人は意外と根拠もなく、深い意味もなく、自己犠牲ができてしまう。ヒーローなんていない。それはすべて巡り合わせのようなもの」という達観した人間観を実は主張している印象を受けた。

この映画がすごくリアルなのは、平凡さを平凡なままに描いているところだ。あえて、事件の当事者たちを本人役としてキャスティングしたのも、プロの役者が「うまく」「感興をひきおこす」ように演じて欲しくなかったからじゃないだろうか?

つくづく凄い監督だ。。。

P.S.
わたしの友達が一番ドキッとするのは、映画の冒頭に出てくる小学校でのカウンセラーとの面談シーンだと思う。子どもを信じてカウンセラーに反論する母親たち。親たるもの、こうありたいと思ったね。

障害の子をもつ家族支援の障壁となるもののひとつとして

kaipapa.hatenablog.com

↑このカイパパ通信blog記事で問題にした(補正を加えた)ツイートに関して、ツイート主である大久保賢一さんが論文の主張を解説する記事が書かれました。ツイート拡散の影響を放置しないための誠実な対応ですね。ぜひご一読ください。

よろしければ、大久保さんの記事のシェアにご協力をお願いします。

格物究理(かくぶつきゅうり) 「親の悲観的思考と自信のなさ」と子どもの行動障害

前述したHandbook of Positive Behavior SupportにおいてDurandらは家族支援の障壁となり得る要因として、家族のストレス、親への高すぎる要求水準、親が介入効果を実感できないこと、セラピストとの関係性、親の社会経済的状況、脆弱なソーシャルサポートなどを指摘していますが、その中の1つとして「親の悲観的態度や自信のなさ」をあげており、そこには付加的な支援が必要であることを主張しています。

(この章では「悲観的思考」の例として、子どもをスーパーマーケットに連れて行くことを取り上げ、実際には買い物の種類や時間の長さによって行動は変わるのに「買い物は何もかも全部ダメ」と考えたり、実際には少しずつ適応的な行動が増えてきているのに「うちの子どもはいつまで経ってもずっとダメ」と信じ込んでいる親をあげています)

Durandらの解説においては、少なくとも「親の悲観的思考や自信のなさ」をスケープゴートにするような意図は感じられず、支援の必要性と支援の可能性を主張している文脈であると読み取れます。

障害がわかった時の圧倒されるような不安…… *1
今もくりかえす将来への茫漠たる不安。抑うつ的になりたくなくても、ぎりぎりのエッジを生きている感じはぬぐえません。
わたしは、強い落ち込みの後に、外に出て行って仲間を見つけることに夢中にななりました。それがベストだったとも、それ以外に方法がないとも思いません。
「カイパパ」というペルソナが守ってくれることもあれば、自分を傷つけることもありました。

「ロールモデル」のような表現や祭り上げ方には抵抗があります。「あの人は、ああだから、あなたも」というアドバイスにはリスクがあります。

結局は、いろいろ見て経験して、いったん「じぶんはじぶんだ」という「その時点での納得」を見つけ続けて、ひと息つきながら生きていくんでしょう、わたしたちは。

*1:ちょっと大久保さんの記事からは離れますが、思ったことを書きました。

話題のツイート「親の悲観的思考と自信のなさ」についてカイパパが補正を加えたいこと

Twitterでは文字数の制限があるので、論文の内容要約・紹介はむずかしいです。

特に、要約が衝撃的でキャッチーだったりすると、ものすごい勢いで拡散されていきます。そのツイートの後に、補足ツイートがついていたりするのですが、補足は読まれずにパンチ力のあるツイートだけが一人歩きします。

今週目の当たりにした典型的な例をみてみます。

このツイートに対しては、激しい反応が起きました。いわく「育てにくい子を持って、親が悲観的になり自信が持てないのは当たり前ではないか」と。そりゃそうですよね。

ツイートで記事や論文が紹介するときに、URLを貼ることでツイート内容が正確かどうか検証できるようにするのが作法です。このツイートも作法を守りリンクが貼ってあるのですが、論文が英語で書かれていて、本文を読むためには購入が必要なため、論文の現物に当たることが難しいです*1。また、無料で読めるサマリー(要約部分)にはツイートで書かれている内容は書かれていません。

そんな中、猛烈な勢いでリツイート(1万1千以上)がされていきました。「お気に入り」登録数も2万近くあり、本当に多くの人の目に触れました。

そもそも片言隻語*2に過ぎないツイートが大拡散するケースは「読者が元々もっていた信念を補強するような内容」であることが多い。「私が思っていたことが論文によって証明された」と思うわけ。逆に「元々もっていた信念に反する内容」であれば、反感リプライが殺到することになる。

論文そのものは読まれず、わずかな文字数のツイートを「自分の信念・文脈によって理解」して激しい反応を引き起こすんですね。

わたしが当該ツイートから受けた印象は、「また新たな母原病説(自閉症の原因は母親の不適切な対応によるとする説)か」ということです。親がダメだから子どもの症状が悪化する。とても切ない思いをしました。これも、わたしが自分の信念にひきつけて解釈したからですね。

ツイート主である@kenichi_ohkuboさんとやりとりをする機会があり、教えてもらったことは、

  • 「子どもに自閉症や行動障害があって、その結果親が自信を持てず悲観的になると行動障害が悪化する」ということを示している研究ではない
  • 「親になる以前から元々悲観的に物事を捉える傾向のあった人は、親になったときに通常のペアトレなど単独のアプローチではあまり効果が期待できないので付加的なサポートが必要」という話
  • 「特に悲観的な親に付加的な支援が必要」、「というかそこからやる必要のあるケースもある」という当たり前のことを示している研究

でした。実はわたしも見逃していたのですが、最初のツイートの直後に次の補足ツイートもされていました。

また、次のツイートも追加されています。残念なのは、フォローしている人以外には届かないことですが……。

最初のツイートを読んで傷ついている親の人に届けたくて、わたしもこのブログ記事を書いています。

悲観的になるのは当たり前です。18歳の子を持つわたしだって、未だに将来のことを思って不安になり無力感を感じています。ましてや、初めて子どもの障害がわかった時期に悲観的になるのは自然なことです。

ツイートで紹介された研究が主張していることは、もともと悲観的な傾向を持つ親*3にはプラスアルファの支援・配慮が必要だということです。

おわりに、afcpさんのツイートを置いておきます。 

親は自分自身のもつ不安を隠さずに見せていきましょう。だって、それが子育てにリスクをもたらすとわかってきたのだから。「助けて」と。

支援者はだれにでも効く万能薬や特効薬のような支援はないから、選択肢の多い「薬箱」のようなものを持ちましょうというメッセージと受けとめました。

そして、社会は、システムは、親と支援者を狭いサークルに閉じ込めないでほしい。親も支援者も一所懸命です。社会がもっと寛容に多様な存在を認めれば、生きづらさはなくなっていきます。

 【追記2018年2月28日】

格物究理(かくぶつきゅうり) 「親の悲観的思考と自信のなさ」と子どもの行動障害

大久保賢一さんが論文の主張を解説する記事が書かれました。ツイート拡散の影響を放置しないための誠実な対応ですね。ぜひご一読ください。

【参考】

関連したツイートのまとめです。ちょっと理解が難しいのですが、参考になります。

togetter.com

*1:私も本文は読んでいません。

*2:わずかなことば

*3:それだって個性のひとつであって尊重されるべきもの。悲観的な傾向それ自体は、行動を慎重にし、生き延びるために役に立つものでもあります。

よく調べるとペアレントメンターなどの補助を市町村まで拡大する予算でした!【平成30年度厚労省予算案】

2月1日に書いた記事の続きです。

kaipapa.hatenablog.com

この記事で引用した時事通信の記事からは、国が新たに補助を始めると読めたのですが、

「アレ? 待てよ。愛知県では親の会(愛知県自閉症協会・つぼみの会)が県からペアレントメンター*1事業を受託しているなあ」と思いました。

そこで、

平成30年度厚生労働省所管予算案関係|厚生労働省

を調べてみました。

「平成30年度各部局の予算案の概要 障害保健福祉部」

この中の7ページにありました。

(1)発達障害児・発達障害者とその家族に対する支援【新規】
地域生活支援事業等(493億円)のうち1.3億円
発達障害児者の家族同士の支援を推進するため、同じ悩みを持つ本人同士や発達障害児者の家族に対するピアサポート等の支援を充実させ、家族だけでなく本人の生活の質の向上を図るとともに、身近な支援を実施するため対象自治体を市区町村まで拡大する。 

ここには「市区町村まで拡大」とありました。

実は、厚生労働省は、平成22年度から広域自治体(都道府県)によるペアレントメンター養成研修実施に補助を始めていました。平成25年度からは広域自治体のコーディネーター配置が補助対象になっています。

つぼみの会が愛知県から受託しているペアレントメンター事業はこれのようです。

2018年度からは、都道府県だけでなく、市町村にまで対象を拡大するわけですね!
それから、伝聞ですが、ペアレントメンターが行う茶話会の開催などの支援活動そのものも新たに補助の対象になるようです。予算規模は1.3億円と決して小さくはありません。

わたしが前回の記事で、「国や自治体が直接的に当事者支援に乗り出すようになったら、親の会の存在意義がなくなるかも?」という懸念を書きました。

ですが、愛知県の事例を見ていると、親の会であるつぼみの会が、(国から補助を受けている)県のペアレントメンター事業の受託者として活動をしています。親の会がない地域では、行政がペアレントメンター養成講座を開催して登録する形になるでしょうが、親の会が健在な地域では親の会が委託先として最初の候補になるでしょうし、ふさわしい担い手だと思います。

親による互助活動を、国や自治体が積極的に支援するよい形です。ペアレントメンター事業がきっかけで、親どうしのつながりも生まれることでしょう。エンパワーメントにもつながります。

親どうしだからできることはあり続けると思います。

*1:ペアレント・メンターとは、自らも発達障害のある子育てを経験し、かつ相談支援に関する一定のトレーニングを受けた親のこと。

上映会のやり方 映画「Journey to be continued -続きゆく旅-」

先日、映画評を書いた「Journey to be continued -続きゆく旅-」ですが、「どこで観られる?」とお問い合わせをいただきました。


Journey to be continued(続きゆく旅)予告編 (3分15秒)

この映画は、可児市国際交流協会が、日本社会に居場所を見出せ ない青少年の内面に向き合い、未来を切り開くための方策を探るために、彼らの心情を映像に投影し、対話のツールとすることを目的に制作されました。

したがって、単に映画をレンタルするのではなく、制作者を派遣して、講演・上映・ワークショップといったかたちでの上映会が推奨されています。

ご興味のある方は、可児市国際交流協会までお問い合わせください。
・プレス提供資料 (PDF)

NPO 法人可児市国際交流協会 担当:各務(かかむ)
TEL:0574-60-1200 FAX: :0574-60-1230
Email:npokiea@ma.ctk.ne.jp
〒509-0203 岐阜県可児市下恵土 1185-7

【料金表】(上映を含む 2 時間の規定料金)

・監督による講演
70,000円(企業対象) 50,000円(学校、行政対象) 50,000円(市民、NPO対象)

・プロデュサーによる講演
50,000円(企業対象) 40,000円(学校、行政対象) 30,000円(市民、NPO対象)

・製作担当者による講演
30,000円(企業対象) 20,000円(学校、行政対象) 10,000円(市民、NPO対象)

*上記は、50 人までの規定料金です。消費税と旅費は別途申し受けます。 参加人数、時間により料金は異なります。ご相談ください。

カイパパの映画評はこちら

実に素晴らしい映画なので多くのかたに観てほしいですね!kaipapa.hatenablog.com

知らなかった!! iPhoneだけでKindle本を音声で読める!

衝撃。シラナカッター!!!

iPhoneで、「設定>一般>アクセシビリティ>スピーチ>画面の読み上げ」をON
これだけで、Kindle本を音声で読める! 画面を二本指で上から下へスライドすれば読み上げが始まります。

やりかたは以下の引用記事をご覧ください。

soi24.net

引用記事では、iBooksは音声読み上げ「できない」とありますが、試したところ大丈夫でした。*1

あと、日経電子版も音声読み上げがすごく便利です。*2

Safariも読み上げ対応ですが、FacebookやTwitterはボタンや不可視情報の読み上げが多すぎて、ちょっとつらいです。

お試しください。

*1:hontoの電子書籍はダメでした。

*2:無機質な読み上げなのでニュース系に向いている。

映画「Journey to be continued -続きゆく旅ー」は傑作だった!

f:id:kaipapa2shin:20180208211616j:plain(c) 可児市国際交流協会

可児市国際交流協会が製作した本映画は、可児市、および周辺地域に住む外国につながる青少年たちの心情を映し出しています。

日本文化を持たない青少年の学校や社会での課題、サポートする協会 や教育者たちの葛藤、そしてこれから日本が向き合うべき多様な人々との共生のあり方について、様々な問いかけが生まれました。

美術家でありイミグレーション・ミュージアム東京の主宰でもある岩井成昭氏が岐阜県に滞在し、美術を用いた独自のアプローチで青少年と対話し、製作したドキュメンタリー映画です。

ドキュメンタリーというと登場人物に寄り添って、その人のドラマを追いかけるのが定番ですが、この映画はちがいます。映画としての「企み」に満ちたアート作品です。

この作品を観るであろう想定観客は、外国人の子どもや移民、多文化共生に関心があるひとたちでしょう。ですが、わたしは見終わってから、そういったテーマに関わりがない人にもぜひ観てほしいと強く思いました。

*以下は、いわゆる「ネタバレ」を含みます。白紙の状態で、事前情報はシャットアウトして観たいかたはご注意ください(わたしもそのクチです)。
ですが、映画評のおかげで、観るつもりがなかった作品を観ることもあるわけで。この映画は自主上映会でしか見られない映画です。この記事が、そういった上映会に足を運ぶ、さらには上映会を開く、そんなきっかけにつながればこんなにうれしいことはありません。

内なる風景と明晰な言葉

チャプター1「内なる風景」

可児市で暮らす16歳から22歳までの外国にルーツを持つ若者たちが、「自由に、なんでも描いていい」と言われて白いキャンバスの前に立つ。
キャンパスには、色とりどり様々なスタイルで「内なる風景」が描き出される。

彼女・彼らは、明晰に自分が描いた具象が表しているものを言葉にする。

「緑は希望。赤は悪いこと」
「青は気持ちいい、うれしい。赤は戦争、かなしみ」
「暗い色は昔の悪かった自分。黄色いドットは親からのアドバイス。その時はわからなかった。だんだんと明るい色、善悪の区別を学んだ今の自分。でもそこには黒いドット(失敗)が散らばっている」

筆だけではなく、手や足もつかう。動きのあるアクション・ペインティングだ。誰から習ったわけでもないだろうに。

わたしが好きだったのは、アレクサが描いたピンクの(たぶん桜の花びらがイメージされた)絵だ。最後に「愛」と描かれたことで背景となってしまったが「愛」を書き加える前の絵に感動した。

ハレーションする言葉たち

チャプター2では、彼ら彼女たちの肉声がコラージュされている。ものすごい情報量だ。
通常ドキュメンタリーでは、だれか主人公を設定して中心を定めて展開する。だが、この映画では特定の主人公はいない。
多くの若者(15名ぐらい)が登場するが、名前だけの紹介で国籍や滞在歴などのプロフィールは紹介されない。登場のしかたも、ランダムだ。だから、顔と声と言葉とそして描いた絵が断片的に印象に残る。

そして、膨大なことばは、相互に矛盾したメッセージを放つ。

・漢字がダメで学校はやめた
・嫌いでもイヤでも勉強はした方がいい
・頭の中がぐちゃぐちゃ。勉強してもふつうよりできない
・ポルトガル語を使ってはダメと言われた
・日本のルールに従うしかない
・「ちがう」からいじめやすい
・我慢すればいつか成果がでる
・高校に行かなくて後悔している
・いじめ、無視、死ね、名前をからかわれた
・先生に言っても「いつか治るよ」と何もしない
・自殺を考えた
・親は子どもが日本人とふれあう機会をふやすべき
・忙しくて親と話す時間がなかった
・日本人は親を大切にしない。ブラジル人は親を大切にする
・親と会話できていない。妹とも話していない。誰とも話していない
・家族はバラバラでもいい

それぞれ別の人がしゃべっているから矛盾していて当たり前なのだが、情報量に圧倒され、だれが何を言ったのかがわからなくなり、観る者の中で、ハレーションを起こす。
その結果、すべてのメッセージを包含した「ひとりの人格」がイメージとして立ち上がってくる。
この「矛盾」「混乱」「混沌」をすべて、今「ひとりの子ども」が体験してきているんじゃないか? どの外国ルーツの子どもであっても、共通して苦しんでいるものなんじゃないか? そう思わされる。

観た者の心に起きること

登場人物の誰かが「大変だったけど、乗り越えてここまで来た」と言えば、受けとめた側はそのひとりの成功事例をもって「よかった」と安心することができるだろう。

だが、この映画では一人ひとりの言葉がハレーションを起こし「ひとりの人格」が全てのメッセージを話しているような印象を与える。

わたしたちは「めでたしめでたし」と拍手して終わりにはできない。若者の「混乱」は今そこにある現実。受けとめたイメージを不安定な状態でジャグリングし続けるしかない。

ラストシーン、塗りつぶされるディストピア

ざわついた心を抱えて、映画のラストにたどり着く。

エリザが描いた絵が映し出される。
淡々とした声で説明される──

青は幼かった頃のしあわせな記憶。オレンジは日没。
赤は夜、悪いことはたいてい夜に起きる。人が人を傷つける。赤は血の色。
赤の中に描かれる人たちはみな黒く塗り込められている。表情はない。だれひとり信じ合えないから。
建物が燃えている。でもだれも助けようとしない。
中央に描かれた木には、美しい色が使われている。平和、宗教、太陽をあらわすシンボルが木の中にある。木は支配者を現し、支配者が美しいものを独占しているのだ……

なんというディストピアか。
人間が人間とつながれない、絶望の世界。それが少女が目に映るリアルなのだ。

カメラは絵が描かれた巨大なキャンパスを引きでとらえる。

キャンバスの前に突然、男が現れる。ビニールの服を着ている。非日常感。わたしは除染をする人を連想した。

彼は無言でエリザの絵を緑のペンキで塗りつぶし始めた(!)

「緑は、ブラジルでは希望=エスペランザの色」というナレーション。
キャンバスが、完全に緑一色に塗りつぶされて、映画は終わる。

単純に解釈すると、
「ディストピア(絶望の世界)を、「希望」で塗り替えよう」
という演出だろう。

だが、ハレーションする「混乱」を受けとめたわたしには、これがそんな単純なメッセージだとは思えなかった。

最初「このラストは暴力的だ」と感じた。

せっかく描かれた絵が抹消されたからだけじゃない。彼女の心が描いたディストピアを、他人が勝手に「希望」で塗りつぶしてしまっていいのか? これは暴力だという憤りだった。

後味の悪さが残り、なぜこのラストを映画の最後に置いたのかを考えさせられた。

こういうことかもしれない〜映画の企み

「映画が終わって、よかったよかったと言い合いたいんでしょ? でもそれって若者が真剣に描いた(発した)絵(メッセージ)を、「希望」とかいうふんわりしたよさげなものでおおい隠し、見えなくしまう行為とおなじだよ」

ラストシーンは、自分が安心するため、他人の苦難を美談に仕立て上げ、真の課題に蓋をする無責任なわたしたち(映画制作者も含む)へのメタ批判になっているのではないか?

外国人の子どもが自由に描く
アート
キャンバスの前で心のうちを語り出す

こういう映画だから。いくらでも美しくつくりこみ、心を揺さぶり、共感を生み出すことはできる。制作者はそういうアプローチを選ばなかった。

ナマの言葉をコラージュし、個人ではなく集合体としての「ひとりの人格」をつくりだした。

その子は混乱と混沌を抱え、いまこの瞬間を苦しみ続けている。

ラストシーンでは、「希望」によってディストピアが消滅する(表面的には)。

そのシーンは暴力的で、異様な印象を残し、観る者の心を攪乱し、予定調和を許さない。

見終わってから、わたしはずっと考え続けている。

こんなすごい映画でした。

 

以上。

マニアックな作品解釈なので、「カイパパ、どんだけひねくれているんだ!?」と思う方もいらっしゃるでしょう。そんな方こそ、ぜひ観ていただきたいです。対話しましょう!

 【2018年2月11日追記】

上映会のやり方、料金表について追加記事を書きました。

kaipapa.hatenablog.com

国が発達障害当事者や家族同士の交流を応援。そこで思うのが「親の会」の存在意義とは?

www.jiji.com

(引用)
事業では、発達障害者本人や家族同士のピアサポートの場づくり▽発達障害の子どもを育てた経験を踏まえて相談に乗る親「ペアレントメンター」の養成やその活動支援▽子どもの成長に関する保護者向けの講座実施-などに取り組む自治体を支援する。 

基本的には、もちろん良いことです。
特に当事者のピアサポートは、親の会でもできているところは少ないです。当事者のピアサポートには、コーディネーターの存在が重要だと思います(必須ではない)。自治体が、コーディネーターを見つけて、場づくり(最初の一歩となるだけでも素晴らしいこと)をしてもらえるとよいですね。

個人的には、親の会の会員数減(そもそも若い親たちは入会しない)→担い手が減り、活動が活発でなくなり→存在意義が薄れていく現状と照らし合わせて、複雑な思いがあります。
互助では立ちゆかなくなっていき、公助頼みになるしかないのかな……。
もう、親の会って必要ないんでしょうか? みなさんはどう思われますか?

成年後見を利用し始めると有無を言わせず一律で職業から排除される「欠格条項」の法改正がついに実現しそうです

this.kiji.is

ついに、欠格条項が削除される見込みです。

現状は、たとえば公務員について言うと、知的障害者が成年後見制度を利用している場合には「公務員に就くための資格がない」として受験すらできません。また、公務員として働いているひとが成年後見制度を利用し始めたら、有無を言わせず失職となります。これは法律で決まっているので、裁量の余地がなく職を失います。*1

成年後見制度を利用しているかたでも個人個人の状態像は異なります。一律の扱いは雑すぎて、権利を制限しすぎているのです。
この欠格条項があるために、本当は成年後見制度を利用したいのに利用できない人もいます。

権利擁護のいの一番に改正が必要だった条項です。本当に改正されるか注目したいと思います。

改正に向けて、内閣府設置の成年後見制度医療促進委員会で2017年9月以降に議論されています。

成年後見制度利用促進委員会 - 内閣府

 

*1:公務員以外にも数多くの職業・資格について同様の欠格条項が定められています。

「成年後見になると仕事ができない?」 | 広島メープル法律事務所

がわかりやすいです。

子どもが大人になってからの絶望は本物の絶望なんだ。だからといって殺していいわけがない……

www.chunichi.co.jp

ニュースの続報では、殺された長男は重い自閉症で、通所施設に通っていたが他の利用者に暴力を振るうという理由で2年前から通所を辞めて自宅にいた。家族に対する暴力もあり、入所施設を探したが見つからず……思いあまっての犯行のようです。

 

子どもが小さいころの絶望と大人になってからの絶望
子どものうちは、それでも多くの支援資源があるのです。
大人になってからは「こうなったのはあなたの責任です」と平気で見放す人びとがいる。大人になってからの時間の方がはるかに長いのに……

 

遠い世界の話ではない。すぐ隣り合わせにわたしたちもいる。

だからこそ

自戒を込めて言う。

絶望したからと言って、殺していいわけがない。
生きたいと叫んでいる命を、奪う権利は親にも、誰にもない。
殺すぐらいなら放り出せ。親と子は別々の命。
この世から命を消してしまう、そんな「親の責任感」なんていらないんだ。