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「NPOと編集」を読んで「NPO批判」について考えてみた

NPOと編集。

huurinntei.hatenablog.com

なるほど。この文章を読んで、近頃考えてきたことがつながった。

「NPOが会社と変わらなくなっている」*1とか「"支持"=資金、にするために、(あざといほどに)"感動"を奪い合っている」といった批判は当たっているところがあると思っている。*2

それよりもっと根源的な批判として、行政が公として取り組まないといけない課題を、NPOが個々に(狭い範囲で)解決してしまうことで、構造的な問題が覆い隠されてしまう*3(社会の課題がまるで「不運だった」個人への「施し」でなんとかなってしまうかのように)(それによって、課題は自己責任の枠にはめ込まれてしまう)(行政はNPOに甘えて「おまかせ」にしてしまう責任放棄が起きる*4と言われることがある。

だが、それがNPOの「罪」なのかと言ったらそうではない。

(引用1)
わたしたちNPOの活動は、社会の中のちょっとした違和感から始まります。世の中で「当たり前だ」「仕方がない」と思われているもの、「誰かが我慢すべきだ」「自己責任でしょ」と言われてきたもの。そうした言葉をそのまま受け入れることなく、「一部の人の問題」「個人の責任」は実は「社会の課題」なのではないかという問い直しをするのがNPOという存在であるはずです。

同時に「社会の課題」の解消・解決を図るという営みは、決して一人でできることではありません。人や組織をはじめとする様々な社会資源をつなぎ、役割分担をしながら、社会に新たな機能を生み出すこともNPOの大きな社会的な役割です。

そう思うと「NPOとは、一人ひとりの問題意識と目指す未来(理念)を軸にして、社会を再編集する存在である」と言い換えることもできそうです。

この文章で語られているように、NPOは社会の見えにくい課題を発見して、「ここに課題がある」とのろしをあげる存在だ。そして「課題がある」と指摘するだけに留まらず、自ら(できる範囲で)解決にトライしてみる存在だ。
行政*5が、まだ課題として認識していない、あるいは解決に取り組む手がかりを見つけていない時に、いち早く社会に対して知らせる役割を持つ、カナリアであり、開拓者である。

批判を受けるのは、NPOが「自己完結」してしまうときだろう。

「編集」は何のためか? 「外(他者)」へ届けるためだ。「読者」は外部にいる。外部に届けるのは何のためか? NPOだけでは解決できる範囲がごく限られているから、仲間を増やし、課題を社会化して、もっと広く平等に課題が解決される社会にしていくためだ。

冒頭に書いたキラキラNPOに対する批判が当たっているのは「自己の団体(と活動)のためだけ」に、支持を集めようとしている場合だ。
事業化や仕組み化は何のためか? 
自己の事業を拡大するためだとしたら、その仕組みは自団体の「強み」になるから、他団体(&行政)にはシェアしたくない。ビジネス的志向(思考)をすると、そうなる。支援している人びとが、自団体の「顧客」に見えてきたら、もう危ない。

「編集術」は手段なので、自団体のための「感動」を調達する目的に使うことができる。それはそれで強力に効果を発揮するだろう。だからこそ「目的は何か」を問い続けなければならない。

以下に、引用記事のラストの文章を引用しておく。とても重要なので。
「NPOとは、もともと<弱さ>から出発するものであった」ここがぶれなければ、迷ったとしても道を誤ることはないのではないか。

(引用2)
編集術はその相互コミュニケーションの方法であり、NPOの活動が生む価値を裏付ける実践的な技術です。

NPOとは、もともと<弱さ>から出発するものであったはずです。“常識”にかき消されてしまいそうな小さな声に耳を傾け、それをそのままにしてはおけないと思い、その小さなか細い声の中にこそ未来へのヒントがあると直感した“普通”の人たちが立ち上がったことが、多くのNPOの原点ではないでしょうか。

イシス編集学校の校長である松岡正剛氏は「弱さによって相互作用が生まれる」「弱さこそが真に過激なのである」(※)と言います。NPOでは、よく経営基盤や組織基盤の脆弱さが指摘されますが、その<弱さ>があるからこそ、多くの人々の力を借り、小さなできることを持ち寄り、それが地域や社会で新たなネットワークを形成し、誰かの居場所や役割を創ってきたという歴史があります。それは小さくとも、過激で鮮烈な出来事だったのではないでしょうか。そこから新たな経営基盤や組織基盤のあり方を生み出すのがNPOだと思うのです。

表層的な強さを求めることなく、<弱さ>からはじまる相互編集を目指して。NPOにこそ編集力が必要なのです。

 

*1:会社も社会課題を解決することで利益を得る存在であるので、社会課題を解決するのはNPOの専売特許ではないが、会社でできるなら会社でやればよいとも言える。

*2:「感動(共感)」の奪い合いは日本に限ったことではないようだ。たとえば、テロ・紛争解決活動家 永井陽右氏の連載コラム「共感にあらがえ」第3回加速する“共感の奪い合い” 国際協力の場で広報のプロが重宝されるワケ

今、共感を獲得すべく社会の様々な場所で競い合いが起きている。その争いは熾烈(しれつ)を極める。共感がある種の指向性を持ちやすい感情である以上、その限られたパイ(人々の関心)をどう獲得するかという構図になる。

*3:個別具体的に見れば、NPOの活動によって救われた人がいる。そのことは素晴らしい。限られた資源しか持たないNPOにすべての人を救えと要求するのは間違っている。だが一方で、他に同様の状況の人が取り残されていることを忘れさせる状況をNPOがつくりだしていないだろうか? それは人間の認知の仕組みのせいでもあるが、一つの好事例(美談)を聴くと、満足して他の未解決ケースに関心がいかなくなってしまう傾向がある。「素晴らしいNPOだ。あのNPOがあってよかった(めでたしめでたし)」で思考停止してしまう。個別のNPOにしてみれば「自分たちだからできた」と評価される方が、行政の委託も受けられるし、寄付も集まり、自団体の存続のためにはプラスになる。

*4:課題が残っているにもかかわらず、行政が責任放棄する手法の一つとして、議会からの追及に対し、好事例を答弁することで課題解決が進んでいるかのように、アリバイ的に見せる「編集術」がある。

*5:「行政」と書いたが、行政を動かすのは政治であり、NPOが働きかける先は、政治と行政双方である。それってNPOに限られない、民主主義の実践ってコト