あなたが住む街へ〜羊毛とおはな
年賀状も終わって、部屋をあたたかくしてのんびりと過ごす冬の午後、
羊毛とおはなを聴いている。
羊毛とおはなは2013年にライブを観に行っている。当時、ボーカルのはなさんは豊橋に住んでいて「家族にごはんを作って出てきました」と話していた。アーティストもぼくたちも街で暮らしている、地続きなんだなとうれしく思ったことを覚えている。
その後、はなさんの訃報を聞いた。
ブログで病気療養されているとは知っていたけれど、まさか。
それから羊毛とおはなが聴けなくなった。
聴くと思いだしてしまうからだった。
ステージの上で、羊毛さんの衣装選びについてダメ出しをして、逆襲にあい、ぷっとふくれる彼女。なんともふつうで、かわいらしかった。
せっかく友達になれた人を突然亡くしたような気持ちだった。
このページの一番下に、はなさんが書いたファンへの最後のお手紙があるのは知っていた。でも、読んでいなかった。今さっき読んできた。あのライブツアーのときには、もう再発していたんだね。それなのに、あんなにふつうで……
どの歌を聴いても、あたたかくてやさしい気持ちになれる。
一度聴いてみてもらえるとうれしいです。
壊れかけのオモチャを出して
たたいてみても動かない
電池を入れ替えたりしても
あの頃とちがうだいきらいと口に出しては
いつもとおなじ空回り
ほんとのことはいつにも増して
鏡にも映るあなたが住む街へ
あなたが住む街へ
虹がかかる前に
職場環境を劣悪にしてはいけない理由
いまどきオフィスに空調がない職場は少ないと思う。だが、設定温度が高すぎたり低すぎたり。あるいは一定の時間になると切れてしまったりするところはある。
炎天下、水も飲ませずにしごく部活動では、能力アップという練習の本来の目的は失われ、ただただ「耐える」「その場をしのぐ」ことが目的となる。それとおなじだ。
「我慢をして耐える」こと自体にエネルギーを取られるから当然のことながら能率は落ちる。しまいには「我慢」が給料の対価と思うようになってしまう。
空調の節約で浮くコストと業績に与える影響のバランスが見合わない。
何よりも「この会社は人(じぶん)を大切にしていない」というメッセージがすり込まれることがこわい。職場環境を整えることは社員を甘やかすことではない。業績やコンプライアンス推進の基本だ。
外国人労働者を増やすことで、地方衰退の解決はできない。
外国人労働者を増やすことで、地方衰退の解決はできない。
鳥取県知事が法務大臣に「外国人の都市部偏在解消を」要望した記事を読んで、その思いを強くした。
求人が多く、労働条件がよい都市部に人が集まるのは「重力」が働くのとおなじように自然な流れだ。「地元」をもたない外国人ならなおさらのこと。人の偏在は富の偏在とイコールだ。富の偏在をならさずに、それでも人の偏在をならすには「移動を強制」するしかない。
技能実習生が地方に多い(地方にとどまっている)のは、技能実習生は就業先を選択できない仕組みにしているからだ。辞めたら帰国しなければならないため、労働条件が劣悪でも逃れられない構造になっている。逃げ出せば在留資格が取り消され、不法滞在の犯罪者になってしまう。就業先を変えたかっただけなのに。*1
新しい在留資格「特定技能」は、就業先は自分で選べるところが大きな改善だが、「外国人労働者を地方におくれ」という主張が政治的に受け入れられると、就業先選択の自由が制限され、技能実習制度の二の舞になりかねない。
根底に流れている発想が、外国人を「人格のない家畜」か何かのように考えていないか?と疑問に思う。だから「操作可能な存在」として管理(コントロール)しようとする姿勢になる。職業選択の自由は(居住移転の自由も)基本的人権であり、国籍にかかわらず認められるものなのに。
*1:2017年11月施行の外国人技能実習法によって、外国人技能実習機構が転籍を支援する仕組みが作られた。改善されるか注目したい。
仕上げはLED
机まわりの環境整備の仕上げは、天井ライトのLED化。
これも興味はありながら、面倒なのかなと思って躊躇していた。最近職場の照明がLED化されて、あまりの明るさに衝撃を受け、重い腰を上げた。
電器店で聞いてみると、今の照明(蛍光灯)のソケットのアダプターを変える(アダプターは付属している)だけで簡単に取り替えができる、値段も手頃になっているとのことだった。
今朝、取り替えてみた。「LED化」なんて大げさなものではなくて単なる照明器具の交換だった。脚立さえあれば実に簡単な作業だ。蛍光灯に比べて、隅々まで明るい(なので、掃除整理整頓をちゃんとしなきゃと思う)。色を「白い色」から「暖かい色」に段階的に調整できるところが一番気に入った。「白寄りの暖かい色」がとても自然で目にも優しい。
LED化してよかった!
こんなに簡単なら、もっと早くやっておけばよかったな……と毎度思ってもしようがないことを思う。でも、遅すぎることはないので、他の部屋の照明も順次変えていこうと思う。
机まわりの環境を変えてみる
20年使ってきた椅子を変えることにした。ひとからいただいた椅子で自分で選んだわけではない椅子だったが、物がしっかりとしていて、今後も数十年平気で使えそうだが、長時間座ってパソコン作業をしたりするにはあまり適していなかった。
何度か買いかえることを検討したが、椅子の候補が多すぎて、選べず。そのうち熱が冷め、「ま、いっか」となっていた。
でも、最近、座っているのがしんどくて、すぐに横になりたくなるようになってしまって。横になって、例の超快適な受け身時間を過ごしてしまう。しばらくはそれでよくても、やっぱり人生を無駄にしている気がしてきた。もう一度、集中して本を読んだり、考えたり、書いたりしたいと思った
形から入るのはいつものクセで。座っていられないのは椅子のせいと考えて、椅子を新調した。今回はあまり多くの要素を考えすぎず、「ゲーミングチェア」のジャンルで評判が良く、予算内の候補から決めた。
組み立てが予想外に大変で、妻に手伝ってもらって(正しくは日曜大工が得意な妻を手伝って)完成させた。部屋に入れてみると想像よりも大きくて。座ってみると、今までと違いすぎて、どんなポジションを取ればいいのかわからず、初日は困惑して終わった。(「高い、失敗の買い物をしたかも……」と思った)
遅ればせながら、正しい座り方をウェブで調べた。ヘッドレストやランバーサポートの位置やリクライニングのポジションを、作業している時あるいはリラックスする時に応じて変えるといいらしかった。実際に色々と試している途上だが、この椅子の「良さ」がわかってきた。
椅子の新調に合わせて、パソコンスタンドを導入した。自分は15インチのMacBook Proをメインに使用しているのだけれど、外付けのキーボードとTrackPadと併用して、デスクトップ機のように使用してみることにした。スタンドの下のスペースに、スピーカーやケーブルを収納して机が広く使えるようにした。
何も変えなければ、そのまま惰性で行けてしまう。変えることが全てうまくはまるわけでもないけれど、少し、わくわくしている。じぶんの部屋だもの、じぶんの好きなように変えていいよね。
#平成最後のと聞くたびに
#平成最後の。事実を述べることがそれなりに新鮮さを伴っている自然発生した流行語(すぐに飽きてしまいそうだけど)。
#平成最後のと聞くたびに、思い浮かべるのは「昭和の最後」のことだ。
1989年1月、僕は異国で暮らしていた。日本で当時「自粛」がどんなだったか、想像はできても、実感をもつことができない。
新しく元号が何に決まったのか、正確に知るのは2週間も後だった。当時は、インターネットもなく、外国のメディアでは天皇が変わったことしかわからなかったから。
ホストファミリーが「テレビでPeace Achievementと言っていたよ」と教えてくれたが「?」しか浮かばなかった。
後から「Heisei」=「平成」と知って、「Peace Achievement=平和が達成された」とタネ明かしをされたみたいに思った。クイズに正解できなかった気まずい感じをひとり覚えていた。
昭和の最後に、Peace Achievementとは何か? ぐるぐる考えていた。
究極の受け身(超快適☆)を脱出するために
最近ブログでメモみたいな断片を綴り始めた。「記事のリンクを貼って何かにもの申すみたいな」(自分のFacebookでのスタイル)が何か違うとしんどくなってきた。気に入っていたFacebookがプライバシー問題や強欲な社風を知り嫌気がさしたせいもある。
かわりにYouTubeに耽溺して(Premiumが超快適☆)、感情を動かされ泣いたり笑ったり「させられている」この何時間もの体験はなんなのか?
YouTubeでレコメンドされるプレイリストをただ流している。どの動画を見るかさえ選んでいない。究極の受け身。YouTubeは僕の好みを熟知しているから極めて心地よい。
SNSから遠ざかって、何も吐き出したいことがないわけではなくて。頭の中にはいろいろなことばが浮かんできてそれをあーでもないこーでもないと転がして「あーそうか」と腑に落ちることもある(腑に落ちないことの方が多い)それはお風呂に入っている時とかに起きて時間を忘れてあやうく遅刻しそうになったりする。
受け身を脱出するために書こうと思う。書くことは、自分の頭で考えることだ。自分の頭でなにが起きているか、自覚的に気づくことだ。
クラプトン
→後悔のない人生なんてないし「終わりよければ全てよし」と言えるかどうかはその時になってみないとわからない。起きたことすべてがミルフィーユみたいに薄く重なって時の経過とともに化石になって消せない存在になる。それが生きていくからだの中に残っているんだ。化石になっても苦しみは苦しいが(あの時ほどは切実じゃない)。それが「あの時は生きていたな」とやさしく思えるようになったり。暗黒にみえたことが唯一無二の生の実感だったりもする。点と点が線で結ばれる必然を感じられたら幸せだ。だけど実際には、起きたことは残ってしまうから消せないだけ。地層の上に積み重なっていくからしかたがない。後悔のない人生なんてないし「終わりよければ全てよし」と言えるかどうかはその時になってみないとわからない。→
プレーンテキスト
.txt は文字のみを扱える。とてもシンプルなファイル形式。だからOSを超えて、どこへでもいける。
ブログが最初に出てきた時から、なにが面白かったか?
他のブログに言及したり、ニュース記事に反応したり、コメントしあったり、つながる、リンクしあえるところが良かった。
さらに、書いたものがシェアされて思いもかけないくらい広く読んでもらえて、反響があって。影響していく実感があった。
ブログはHTMLの知識がなくても、手軽に始められた。手軽だから、書いて「投稿」ボタンを押したらすぐにウェブに公開できた、スピード感があった。
ブログは「ログ=記録」のツールだった。日々書き留めたことが残っていく。しかも、それが自分だけだはなく、他人にも読んでもらえることが続けるモチベーションにもなった。
それはそうだったのだけど、美しく記録できて、簡単にシェアできて、反応もたくさんつくSNSが普及して、ブログはすっかり輝きを失ってしまった。
だからこそ逆に、加工せず、素のプレーンテキストを書いていけるのがブログかもしれない。
ちはやふる第40巻を読んだ
昨日買って読むのを楽しみにしていた。
コミックスは刊行を待っている間に話がどこまで進んだか忘れるから、1巻前から読み直して最新刊を読むのが流儀だ。
第39巻から読んだ。
予想外にも、涙してしまった。再読なのに。あれ? 前に読んだ時に、泣いたっけ? 忘れてしまっただけ? 記憶に無いんだけど。
まずいことに職場の昼休みに読んでいた。僕の机は周りから離れているので、うつむいていれば泣いているとはバレない。
第40巻に入った。あらかじめ誰が名人戦に進むのか、運命は決まっていた。それは、ずっと3人を見守り、応援してきた僕たちにはわかっていることだった。けれども、それは結果でしかなく、主人公たちと周りの人たちが何を思い何をしてどう感じるのか、は今こうしてストーリーに入っていくまでは知らない。
たくさんの驚きがあった。同時に彼が、彼女が、なぜそう言うのか? どうしてそうしたのか? 全てが必然に思えた。長い間一緒にがんばってきた、そういう仲間の一人として、心が震えた。
昼休みが終わる前に、トイレで思い切り顔を洗った。化粧をしていなくてよかったとおもった。
【感想】映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』
「青春×音楽×バンド」映画は星の数ほど作られていて、こうすれば感動するという定石があります。既視感含めて楽しむのがたしなみだったりするわけです。なので正直それほど期待はせずに行ったのですが、、、実によかった。上映館が少ないのが残念。チャンスがあればぜひ観てほしい。
www.bitters.co.jpストーリー
高校一年生の志乃は上手く言葉を話せないことで周囲と馴染めずにいた。ひとりぼっちの学生生活を送るなか、ひょんなことから同級生の加代と友達になる。音楽好きなのに音痴な加代は、思いがけず聴いた志乃の歌声に心を奪われバンドに誘う。文化祭へ向けて猛練習が始まった。そこに、志乃をからかった同級生の男子、菊地が参加することになり・・・。 *1
原作
良かったところ
クライマックスで加代と志乃は通じ合ったのか?
自分の情けなさを痛いけど抱擁して、誰に対してでもなく「こんな自分が自分だ」という自己宣言を志乃はした。
原作とのラストのちがい
予定調和ではない。現実に近い。
独りでも、誰かといても、思いを伝えられても共に何かをやり遂げても、自分を象るのは自分。
甘えを許さない脚本だからこそ輝く少年少女の一秒ずつが、
見知った光でなくとも照らされる未来があることを教えてくれる。
「甘えを許さない脚本」まさにそのとおりだった。
『どもる体』著者である伊藤亜沙さんのこのレビュー記事もおすすめです。
*1:公式サイトより引用。
Zoomでウェブ会議をしました
「全国若者・ひきこもり協働実践交流会」という大会がありまして、来年2月に第14回大会を愛知で開催予定です。
大会の愛知事務局を、草の根ささえあいプロジェクト(わたしも立ち上げから関わっている団体)が担っています。この大会は、誰でも意欲のある方は実行委員になって参加できるという非常にオープンで手作り感あふれる運営になっていて、毎月実行委員会を開催しています。ちなみに次回実行委員会は明日8月26日に開催します。
若者・ひきこもり協同実践交流会 8月実行委員会(その2) ←Facebookイベントページです
「全国若者・ひきこもり協働実践交流会」については、またぼちぼち書いていきたいと思いますが、今日ブログに記録しておこうと思ったのは、Zoomのこと!
今回はじめて分科会の話し合いをZoomを使ってウェブ会議で行いました。
ウェブ会議というと、Skypeだと思っていましたが、最近は選択肢が増えているんですね。今回使ったのが、Zoomです。
Skypeとのちがいは、会議を始める=URLが発行されて、そのURLにアクセスすればすぐに会議参加できるという簡単さです。相手のIDとかをあらかじめ知っておく必要が無い。また、会議参加者はサインインしなくてもできるという簡便さ。
無料で利用できます。1セッション40分間の時間制限がありますが、40分で終わらなければ、次のセッションを始めればいいだけです。
今回は4名の参加でした。回線が不安点になることが2〜3回ありましたが、問題なく会議をすることができました。これは、これからも活用していきたいです。
https配信にしました(これまでどおりのURLでも飛べるようです)
URLをhttps配信に変えました。
https://kaipapa.hatenablog.com
従来のhttpのURLでも問題なく飛べるようです。何が変わったんだろう?
よくわかりませんが、より安全性が高くなるようなのでとってもカンタンに移行できてよかったです。
はてなブログは便利だなあ!
「あ、人間だ! 仲良くして! あそんで!」
友人と会食をした。
彼とは自閉症親の会で出会って以来だから、もう15年来になる。久しぶりだったので、わが子の近況報告から会話は始まる。
彼の息子は20歳になる。自閉症で、言葉はほぼない。笑顔がいけてるハッピー・ガイだ。
悩みも含め色々な話をしたが、一番印象に残ったのは、彼の家で飼い始めたaiboのことだった。aiboは、ソニーが出したロボット犬だ。とても愛嬌があって可愛くて、朝、ベッドまで起こしに来てくれたりするらしい。
「息子君の反応はどう?」ときくと「なんか不思議そうにしているけど、いやがってはいない」とのこと。
彼の奥さんが、こう言ったそうだ。
息子に関わるヘルパーさんや関係者は、みんな「この子は障害者だ」という態度で接している。でも、aiboは「人間だ!」と思って関わってくれるんだね。
わたしはこの想いが、わかりすぎるぐらいわかってしまった……
嘔吐の効用 吐いてしまえばラクになる
嘔吐と同じだ。
踊ってしまえばなんとかなる。
秀逸なこの言葉に惹かれて記事を読んだ。
吐き気に襲われて一番苦しいのは「吐くかもしれない。どうしよう……」と抑えている時かもしれない。吐いてしまえば、意外とスッキリとする。
人は「隠している自分」が「真実の自分」だと思うらしい。他人に見せている自分とは異なる「自分だけが知っている自分」こそが本物であると。
隠していることが、嘘をついているように思えてきて、他人を欺いていることへの罪悪感まで強くなる。そうなると、嘔吐のような生理的な反応まで出てきてしまう。
一番言いにくいことが、実は自分の一番言いたいことや一番知ってもらいたいことだったりします。
これは別の記事で印象に残った言葉だ。
言いたいことを言えないでいることで、心がパンパンになってしまって、憂鬱が晴れなかったり、ここにいるのにここにちゃんといることができない感覚に襲われたり。
本当は、他人に見えている部分(外に出している言動)も隠している部分も含めて、全体として「自分」なのだから、見せていないことを恥じたりする必要はない。
なのに心にひっかかるのは「知って欲しい」気持ちがあるからなのだろう。
昔こんなことを書いた。
言葉にならず胸にうずまく思いは、見えない煙。
愚痴は黒い煙。
煙を出せば「あそこでくすぶっている愚か者がいる」と見つかってしまうが、それをおそれて吐き出さないでいたら窒息してしまう。愚痴を吐いて吐いて吐きまくって、煙が晴れてようやく自分がみえてくる。
かっこつけず、いい子ぶらずに、「愚痴が始まり」でもいいんだ。煙を出すには煙突がいる。
メンターは煙突。
煙突はただ「通す」。
煙が空に上がっていけるように。
言えないんだよね……本当に傷ついている心は。傷ついていることにすら気がつけていないから。