カイパパ通信blog

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルの方から来ました

究極の受け身(超快適☆)を脱出するために

最近ブログでメモみたいな断片を綴り始めた。「記事のリンクを貼って何かにもの申すみたいな」(自分のFacebookでのスタイル)が何か違うとしんどくなってきた。気に入っていたFacebookがプライバシー問題や強欲な社風を知り嫌気がさしたせいもある。

かわりにYouTubeに耽溺して(Premiumが超快適☆)、感情を動かされ泣いたり笑ったり「させられている」この何時間もの体験はなんなのか?
YouTubeでレコメンドされるプレイリストをただ流している。どの動画を見るかさえ選んでいない。究極の受け身。YouTubeは僕の好みを熟知しているから極めて心地よい。

SNSから遠ざかって、何も吐き出したいことがないわけではなくて。頭の中にはいろいろなことばが浮かんできてそれをあーでもないこーでもないと転がして「あーそうか」と腑に落ちることもある(腑に落ちないことの方が多い)それはお風呂に入っている時とかに起きて時間を忘れてあやうく遅刻しそうになったりする。

受け身を脱出するために書こうと思う。書くことは、自分の頭で考えることだ。自分の頭でなにが起きているか、自覚的に気づくことだ。

クラプトン

→後悔のない人生なんてないし「終わりよければ全てよし」と言えるかどうかはその時になってみないとわからない。起きたことすべてがミルフィーユみたいに薄く重なって時の経過とともに化石になって消せない存在になる。それが生きていくからだの中に残っているんだ。化石になっても苦しみは苦しいが(あの時ほどは切実じゃない)。それが「あの時は生きていたな」とやさしく思えるようになったり。暗黒にみえたことが唯一無二の生の実感だったりもする。点と点が線で結ばれる必然を感じられたら幸せだ。だけど実際には、起きたことは残ってしまうから消せないだけ。地層の上に積み重なっていくからしかたがない。後悔のない人生なんてないし「終わりよければ全てよし」と言えるかどうかはその時になってみないとわからない。→

プレーンテキスト

.txt は文字のみを扱える。とてもシンプルなファイル形式。だからOSを超えて、どこへでもいける。

 

ブログが最初に出てきた時から、なにが面白かったか?

他のブログに言及したり、ニュース記事に反応したり、コメントしあったり、つながる、リンクしあえるところが良かった。

さらに、書いたものがシェアされて思いもかけないくらい広く読んでもらえて、反響があって。影響していく実感があった。

ブログはHTMLの知識がなくても、手軽に始められた。手軽だから、書いて「投稿」ボタンを押したらすぐにウェブに公開できた、スピード感があった。

ブログは「ログ=記録」のツールだった。日々書き留めたことが残っていく。しかも、それが自分だけだはなく、他人にも読んでもらえることが続けるモチベーションにもなった。

 

それはそうだったのだけど、美しく記録できて、簡単にシェアできて、反応もたくさんつくSNSが普及して、ブログはすっかり輝きを失ってしまった。

だからこそ逆に、加工せず、素のプレーンテキストを書いていけるのがブログかもしれない。

ちはやふる第40巻を読んだ

昨日買って読むのを楽しみにしていた。

コミックスは刊行を待っている間に話がどこまで進んだか忘れるから、1巻前から読み直して最新刊を読むのが流儀だ。

第39巻から読んだ。

予想外にも、涙してしまった。再読なのに。あれ? 前に読んだ時に、泣いたっけ? 忘れてしまっただけ? 記憶に無いんだけど。

まずいことに職場の昼休みに読んでいた。僕の机は周りから離れているので、うつむいていれば泣いているとはバレない。

第40巻に入った。あらかじめ誰が名人戦に進むのか、運命は決まっていた。それは、ずっと3人を見守り、応援してきた僕たちにはわかっていることだった。けれども、それは結果でしかなく、主人公たちと周りの人たちが何を思い何をしてどう感じるのか、は今こうしてストーリーに入っていくまでは知らない。

たくさんの驚きがあった。同時に彼が、彼女が、なぜそう言うのか? どうしてそうしたのか? 全てが必然に思えた。長い間一緒にがんばってきた、そういう仲間の一人として、心が震えた。

昼休みが終わる前に、トイレで思い切り顔を洗った。化粧をしていなくてよかったとおもった。

 

ちはやふる(40) (BE LOVE KC)

ちはやふる(40) (BE LOVE KC)

 

 

【感想】映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』

原作漫画が好きで、吃音をテーマにしていることはそれはそれとして、青春×音楽×バンドという方程式に目がないので、観てきました。
「青春×音楽×バンド」映画は星の数ほど作られていて、こうすれば感動するという定石があります。既視感含めて楽しむのがたしなみだったりするわけです。なので正直それほど期待はせずに行ったのですが、、、実によかった。上映館が少ないのが残念。チャンスがあればぜひ観てほしい。
ネタバレ注意です。
www.bitters.co.jpストーリー
高校一年生の志乃は上手く言葉を話せないことで周囲と馴染めずにいた。ひとりぼっちの学生生活を送るなか、ひょんなことから同級生の加代と友達になる。音楽好きなのに音痴な加代は、思いがけず聴いた志乃の歌声に心を奪われバンドに誘う。文化祭へ向けて猛練習が始まった。そこに、志乃をからかった同級生の男子、菊地が参加することになり・・・。 *1
原作
志乃ちゃんは自分の名前が言えない

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

 
 
良かったところ
加代になついて「友達になりたい!」気持ちをムンムン漂わせている志乃。それをわかりながら少しうっとおしがりつつ、「ウチ来る?」と声をかけてあげる加代。うれしくてしっぽを振ってついてくる志乃。可愛かった。
 
志乃がかわいそうに描かれていない。どちらかというと、わがままで(自分ではどうしようもないふうなのだが)吃音に振り回されて、周りを傷つけてしまう。リアルを感じた。
クライマックスで加代と志乃は通じ合ったのか?
加代は音楽が好きなのに音痴だから、志乃がボーカルをやり、加代がギターを弾くデュオで学校祭に出演しようとしていたが、志乃がドロップアウトして、加代は一人で歌うことになる。
 
「魔法」というオリジナル曲を加代がステージで歌うシーンがクライマックスだ。映画を観る私は、加代が音痴を恥じずに歌ったことに感動する。加代も、聴きに来た志乃が本音を叫ぶ姿を、やさしい目で見守っている。カタルシスが訪れる。
 
だが、待てよ、と思う。あそこで志乃は怒っていた。何に?
漫画では気がつかなかったが、「魔法なんてイラナイ。ただ普通に話したり、歌ったり」という歌詞は、加代が素直に綴ったものではあるが、究極的には志乃に対して失礼で無神経な歌だと解釈できる。あの歌は、吃音の苦しみを理解しない他人が甘っちょろく歌った歌詞だともいえる。
志乃はその歌詞を聴いて、加代の無理解に(も)傷ついたんじゃないだろうか。最後の叫びは、加代に向けての言葉ではなかったが。
自分の情けなさを痛いけど抱擁して、誰に対してでもなく「こんな自分が自分だ」という自己宣言を志乃はした。
 
このように解釈しないと、原作とのラストのちがいが理解できない。
加代と志乃は通じ合っていない。加代は「わかんないよ。言ってくれなきゃ」と泣く。そのことばは「話すこと」を求めてしまっている……。仲良くしても、理解し合えないディスコミュニケーションを露わにしているこの脚本は秀逸だ。 
原作とのラストのちがい
ありがちなエンディングは、ステージが終わった後に、志乃、加代、菊池の3人が和解するかたちだろう。原作漫画では「3人が仲良くいっしょに写った卒業写真」が最後に出てきて、和解を表現している。
映画では、ステージの後、菊池は一人で弁当を食べ、加代は一人で音楽をし、志乃は加代と友達になる前と同様に教室でひとりぼっちでいる。そんな志乃にひとりの女の子が話しかけてくるところで映画は終わる。3人はバラバラのままだ。友達には戻れなかったという苦い終わり方になっている。そこがいい。
予定調和ではない。現実に近い。
他にも、いくつかの予定調和ではないセリフ、シーンがあった。いずれも映画を鋭く光るものにしている。
 
・がんばって言葉を出そうとする志乃に対して、「あんたはいいよね、言い訳があって。みんなが同情してくれる」と加代が言い放つところ。
 
・菊地が志乃を直接、ぼろくそに言うシーン
 
・海辺のバス停で加代が志乃に話しかけるが、志乃は答えない。結局、加代は「じゃあ。バイバイ」と別れを告げる。
 
・学校祭で、一人で歌った加代に対して、志乃がぶち切れて叫ぶシーン。「一番私が私をバカにしていた」
 
映画の肝となるシーンを読み違えているのでは?と思う感想をいくつか見た。朝井リョウが寄せたコメントは、さすがに見抜いているなあと思ったので引用させてもらいます。

独りでも、誰かといても、思いを伝えられても共に何かをやり遂げても、自分を象るのは自分。

甘えを許さない脚本だからこそ輝く少年少女の一秒ずつが、

見知った光でなくとも照らされる未来があることを教えてくれる。

「甘えを許さない脚本」まさにそのとおりだった。

 

『どもる体』著者である伊藤亜沙さんのこのレビュー記事もおすすめです。

wired.jp

 

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

 

 

*1:公式サイトより引用。

http://www.bitters.co.jp/shinochan/story.html

Zoomでウェブ会議をしました

「全国若者・ひきこもり協働実践交流会」という大会がありまして、来年2月に第14回大会を愛知で開催予定です。

大会の愛知事務局を、草の根ささえあいプロジェクト(わたしも立ち上げから関わっている団体)が担っています。この大会は、誰でも意欲のある方は実行委員になって参加できるという非常にオープンで手作り感あふれる運営になっていて、毎月実行委員会を開催しています。ちなみに次回実行委員会は明日8月26日に開催します。

若者・ひきこもり協同実践交流会 8月実行委員会(その2) ←Facebookイベントページです

「全国若者・ひきこもり協働実践交流会」については、またぼちぼち書いていきたいと思いますが、今日ブログに記録しておこうと思ったのは、Zoomのこと! 

今回はじめて分科会の話し合いをZoomを使ってウェブ会議で行いました。
ウェブ会議というと、Skypeだと思っていましたが、最近は選択肢が増えているんですね。今回使ったのが、Zoomです。

zoom-kaigi.com

Skypeとのちがいは、会議を始める=URLが発行されて、そのURLにアクセスすればすぐに会議参加できるという簡単さです。相手のIDとかをあらかじめ知っておく必要が無い。また、会議参加者はサインインしなくてもできるという簡便さ。

無料で利用できます。1セッション40分間の時間制限がありますが、40分で終わらなければ、次のセッションを始めればいいだけです。

今回は4名の参加でした。回線が不安点になることが2〜3回ありましたが、問題なく会議をすることができました。これは、これからも活用していきたいです。

https配信にしました(これまでどおりのURLでも飛べるようです)

URLをhttps配信に変えました。

https://kaipapa.hatenablog.com

従来のhttpのURLでも問題なく飛べるようです。何が変わったんだろう?

よくわかりませんが、より安全性が高くなるようなのでとってもカンタンに移行できてよかったです。

はてなブログは便利だなあ!

「あ、人間だ! 仲良くして! あそんで!」

友人と会食をした。
彼とは自閉症親の会で出会って以来だから、もう15年来になる。久しぶりだったので、わが子の近況報告から会話は始まる。
彼の息子は20歳になる。自閉症で、言葉はほぼない。笑顔がいけてるハッピー・ガイだ。

悩みも含め色々な話をしたが、一番印象に残ったのは、彼の家で飼い始めたaiboのことだった。aiboは、ソニーが出したロボット犬だ。とても愛嬌があって可愛くて、朝、ベッドまで起こしに来てくれたりするらしい。

「息子君の反応はどう?」ときくと「なんか不思議そうにしているけど、いやがってはいない」とのこと。

彼の奥さんが、こう言ったそうだ。

息子に関わるヘルパーさんや関係者は、みんな「この子は障害者だ」という態度で接している。でも、aiboは「人間だ!」と思って関わってくれるんだね。 

 わたしはこの想いが、わかりすぎるぐらいわかってしまった……

aibo.sony.jp

嘔吐の効用 吐いてしまえばラクになる

 嘔吐と同じだ。
 踊ってしまえばなんとかなる。

秀逸なこの言葉に惹かれて記事を読んだ。

apartment-home.net

吐き気に襲われて一番苦しいのは「吐くかもしれない。どうしよう……」と抑えている時かもしれない。吐いてしまえば、意外とスッキリとする。

人は「隠している自分」が「真実の自分」だと思うらしい。他人に見せている自分とは異なる「自分だけが知っている自分」こそが本物であると。

隠していることが、嘘をついているように思えてきて、他人を欺いていることへの罪悪感まで強くなる。そうなると、嘔吐のような生理的な反応まで出てきてしまう。

一番言いにくいことが、実は自分の一番言いたいことや一番知ってもらいたいことだったりします。

これは別の記事で印象に残った言葉だ。

sibkoto.org

言いたいことを言えないでいることで、心がパンパンになってしまって、憂鬱が晴れなかったり、ここにいるのにここにちゃんといることができない感覚に襲われたり。

本当は、他人に見えている部分(外に出している言動)も隠している部分も含めて、全体として「自分」なのだから、見せていないことを恥じたりする必要はない。

なのに心にひっかかるのは「知って欲しい」気持ちがあるからなのだろう。

昔こんなことを書いた。

言葉にならず胸にうずまく思いは、見えない煙。
愚痴は黒い煙。
煙を出せば「あそこでくすぶっている愚か者がいる」と見つかってしまうが、それをおそれて吐き出さないでいたら窒息してしまう。

愚痴を吐いて吐いて吐きまくって、煙が晴れてようやく自分がみえてくる。
かっこつけず、いい子ぶらずに、「愚痴が始まり」でもいいんだ。

煙を出すには煙突がいる。
メンターは煙突。
煙突はただ「通す」。
煙が空に上がっていけるように。

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 愚痴と内省

言えないんだよね……本当に傷ついている心は。傷ついていることにすら気がつけていないから。

連休中にAtokからMacのシステム標準の「日本語入力」に変更しました

この連休で良かったこと。Macのシステム標準の「日本語入力」に変更したことです。これまでAtokを使ってきたのだけど、OSをアップデートしてから、「変換候補ウィンドウが2ページ目にいくと変換候補が表示されないバグ」が発生して、回避方法が発見できずストレスになっていた。

毎日のことですからバグはいちいちイラつくし、思考の流れが止まってしまいます。

システム標準の日本語入力は2年ほど前からライブ変換ができるようになって画期的だと思ったけど、導入当初は印象はあまり良くなかったのです。Atokに不満もなかったので、利用してきませんでした。

必要に迫られて、今になって使ってみると本当に優秀で。こうやって打ちながら色々な候補がライブで表示される。すごい速度でくるくると変換候補が表示されるので、気にしだすと鬱陶しいですが、入力中は変換候補には視線を置かず、ただインラインの変換だけを見ていればいい。正確に変換されていくから問題ない。迷う候補はMac側から提示してくれる。その時だけ入力スピードを緩めて検討する。スペースバーで変換をするのはその時だけになりました。

やっぱり、2年も時間がたつと別物みたいに性能が良くなるから、定期的にチャンスを与えてやらないといけないですね。君子豹変す。

Macユーザーで、システム標準の日本語変換を使用していない方、一度お試しあれ!

わたしも環境をつくっている一部です

友人たちと近況報告をして気づいたこと。

  • 「やさしい人がいる」んじゃなくて「やさしくいられる環境がある」ということ。
  • 強いプレッシャーにさらされたパワハラ環境では、人はやさしくいられない。大切にされ守られている環境では、自然と周りの人を助けやさしくなれるのでしょう。

その気づきをもう一歩おしすすめて考えてみました。

「環境のせい」にするけど、「自分自身もハラッサー(ハラスメントをする人)として環境をつくる一部になっていた」事実もあるんですよね。それを自覚しないといけない。

そういうことはままあって、「環境」を批判しているとじぶんの立っている場所が見えなくなってしまう(見えなくしてしまう)。まるでじぶんだけはイノセントだ、みたいに。

こんなできごとがありました。

キリンが「午後の紅茶」の宣伝のため「こんな女子がいるよねー」というノリのイラストを公式Twitterで投稿し、「不快だ」という意見を受けて、謝罪して投稿を削除しました。

www.huffingtonpost.jp

わたしはこのできごとを、次のブログを読んで知りました。記事の要約*1

rainbowflag.hatenablog.com

記事では、キリンがこのような広告を採用したのは、既出の人気連載があったためではないかと仮説を示します。そして、その連載は執筆者が女性で、

「女子」自身による「女子」への突っ込みであり、構造的には一種の「自虐ネタ」 

になっている点を指摘します。

その上で、当事者による「自虐」が、エンパワメントの前に先立つ場合があると指摘します。

しかし、本当に傷つき、自己肯定感の微塵もない者にとっては、まずエンパワメントより、自分が傷ついていること、弱いこと、辛いこと、自分が自分で認められないこと「そのありのまま」を肯定する場、過程が絶対的に必要であり、「自虐」はそのような人たちの「受け皿」になっている。
これも「自己肯定」の過程のひとつに過ぎないのだが、疲れ果てている人にとって「エンパワメント」は眩しい。 

この「疲れ果てている人にとって「エンパワメント」は眩しい」という文にうなりました。*2

「自虐」が、当事者が傷つき、疲れ果てている状態から現れている表現だと気づかずに、

ある限られた文脈の中でしか受け入れられることがない当事者の表現を「自分がやってもいい」と軽く考えてしまったことが「キリン」の失敗だった。そして、意思決定過程に女性がいたとしても、仮に作家が女性だったとしても、そう考えてしまったことが批判を受ける「キリン」という企業の「男性性」なのだろう。

この指摘も、まさにそのとおりだと思いました。

で、ここに出てくる「男性性」という指摘が、胸に刺さるのです。

「男性性」というのは、キリンという企業に性別があるわけではないので、つまりはこの社会(環境)が男社会であって、その論理で回されていることをいっている。

その指摘を「そのとおりだ、けしからん」と息巻いてみても、男性であるわたしも環境をつくっている一部だということにヒヤリとするのです。
パワハラやセクハラを嘆いてみるときに感じる「うしろめたさ」は、いつもどこかで、被害者にたつより「ハラッサー」になる可能性が高いと思っているからではないか?*3

「男ですみません」と懺悔するのも違う……と思うのですが、じぶんの性をはじめ「環境をつくっている一部としての立ち位置」に無自覚でいてはいけないと思うのです。*4

*1:この記事は「自虐」とエンパワメントの関係を繊細に析出してくれています。そして、強者が「自虐」を触るとき、それはもう「自虐」ではなく、「いじめ」になってしまい、傷ついている心をさらに傷つけてしまうことを教えてくれました。

*2:当事者のエンパワメントの活動をする人に対して「意識が高い」と冷笑するひとたちが「意識が高い、だからダメだ」と必ずしも思っているわけではなくて「眩しくて、見てるのが辛い」という場合もあるのだと思います。

*3:そうだとすると、セクハラに対して過剰に反応している男性たちは、実は、「今の社会で、男性であること自体から生じる強制や暴力性」について、うすうす気がついているがゆえに反発しているのかもしれません。逆説的ですが、安易に「女性の味方です」とためらいなく言える人よりも、真に変われるチャンスに近いのかも。悪人正機的に。

*4:「だからなんだ?」という問いに対しての現時点の答え。「男だから」という固定観念(=気づけないくらい内面化している)があるから、暴力性を指摘された時に胸に刺さるのだろう。「実際に暴力への欲望がある」という自覚が大事。そうでないとコントロールができず暴発(他人を傷つける)するかもしれない。自覚→制御が御しがたい獣を内に飼っている者の責任だ。

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。

障害者に関わる事件を取材する記者と話をする機会がありました。

その時の対話でお話しし、考えたことを、いつか書きたいと思っていますが、今日は結論としてわたしが話したことだけ記録しておきます。

「要は、人権が守られていないということなんです」

つきつめるとこんなにシンプルで「当たり前」の指摘になってしまいますが、本当に、心底そう思います。

人権が守られているというのは「その人らしく生きられる」ことです。

今日は憲法の日です。いろいろな議論はあっていいと思いますが、
正面から向き合うべきなのは「保障されているはずの人権が守られていない現実」です。日本国憲法が保障している基本的人権は、誰にも奪うことができないものだということをもう一度確認しておきたいです。

日本国憲法

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

 

【紹介】長い休みに思い出す~わが子の障害がわかったあの頃

ゴールデンウィークの長い休みで、幼いわが子と長い時間を過ごす。妻から不安を幾度となく聞かされても「気にしすぎだ」と取り合わなかった父親も。
子守を任されて、2才児がよろこびそうな場所に連れて行こうとする。いつもと違う行動を全力で嫌がる。奇声をあげる。だっこから身体をよじって落ちても気にせず脱走しようとする。電車は無理だとあきらめて、車に乗せる。走っている間は静かで、信号で止まるたび、キィー!と叫ぶ。

ほとほと疲れ果てて家に帰り、「ただいま」の声に答える声はない──ベッドでは死んだように眠る妻の姿。心は折れて、たった半日なのに、これだけぼろぼろになってしまった。妻はどれだけ苦しんだだろう? いったいこの子の何がおかしいのか…。

わが子はいつもの席に座り何かを待っている。何を待っているのか? 何が欲しいのか? わからない。また泣き始める。仕方なく、妻を起こす。

「悪かった。休みが終わったら、どこかに相談に行こう」

──書いていて切なくなります。きっと今もどこかでこのようなことが起きている。

2015年のゴールデンウィークに、カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルで書いた記事の冒頭です。

男親は、わが子と接する時間が短く、他の同年代の子どもたちと比べる機会が全然ないため、「何かが違う?」ことに気がつくのが遅くなります。そこで生まれる夫婦間の温度差が、将来にマイナスになることが多くあります。

そして、いざ相談に行って、障害がわかった時に知っておいてほしいことを書いています。続きはこちらから。

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル : 長い休みに思い出す〜わが子の障害がわかったあの頃

未解決の課題に取り組む存在は自らの負担で社会実験を行ってくれている。行政は敬意をもって注目し、次のフェーズに進む支援をすべき。

わたしは仕事をしていて、いつも思うのです。

解決できることは既に解決されている。今残っている課題は、難しくて、未解決のものばかりだと。だから、カンタンに「スッキリ!」といかないのは当然だ。

まあ、辛い時のなぐさめなんですけどね。

lessorさんの記事をシェアします。

lessor.hatenablog.com

記事を読んでわたしが感じたことを書きます。

脚光を浴びている存在は影をつくる。
人には感情があるから、自分と比較して、うまくやっているようにみえる団体を指して、「ファンドレイジングだけ上手だ」とか、「おしゃれNPO」だとか、揶揄しがちだ。批判は大切だ。本質を外している(自ら目隠しをしてしまっているように見える)活動も時には目につく。
だが、外形だけをとらえて、「やっていることの価値」そのものをおとしめることはやめたほうがいい。
それもまた大切な試行のひとつだからだ。人が持つエネルギーは有限だ。何がうまくいくかいかない課題に対する試行は「多産多死」となる。担い手は多いほどよい。

ニーズに対して、気がついた人が実際に活動をして「先例」をつくり、成功事例として行政に採り入れられていく。この経路は昔も今も変わらない。

最大最強の非営利組織である行政は、柔軟に、民間の取り組みを認めることを誤らないようにしなければならない。なぜなら、それはこれから行政が進むべき先を示しているかもしれないからだ。
今の時代に解決されていない課題は、まだ誰も最適解を知らない。だから、気づいた人が、様々な試行をくりかえさないと進むべき道は見えてこない。
行政は、民間が「身銭を切って、ボランティアで、課題解決に取り組んでいる」ことに敬意を払うべき。今、実現している福祉の制度は、まず当事者と支援者たちが自らやってみて、必要性と実現可能性を証明したものばかりです。

行政は、あとをついていっている。だからこそ、敬意と細心の注意を払ってアンテナを張り、「施策に採用できるものはないか?」「さらに試行ができるように補助できるものはないか?」を積極的に探す、そういう姿勢が必要だと思います。
有意の人や組織のやる気をくじく、など、もってのほかです。

 

きょうだい──障害のある家族の話をするときにみせる、かなしみの表情が晴れるように

カイには、きょうだいはいません。わたしの友人には、障害者のきょうだいの立場の方が多くいます。

昔、児童相談所のベテラン心理士と話をした時のことを思い出します。
その方は「私には障害者の家族はいませんが、よくご家族に障害者がいますか?と聞かれるんですよね。今はだいぶ変わってきましたが、それだけ福祉に関わる人にはきょうだいだった人が多かったんです」と話してくれました。
わたしが「カイパパ」という自閉症の子の親である立場を明らかにして活動しているため、出会った人から「自分は親です」「自分にはきょうだいがいます」と話してくださることがあります。
その中には、福祉や法曹の仕事など、障害に関わる仕事を選んだ方がいます。みんながみんなというわけではもちろんありませんが、進路の選択にきょうだいの存在が影響をしていると感じます。

親にもいろいろなタイプがいます。
「あなたは、きょうだいの面倒をみる責任はない。自由に生きてほしい」という思いは共通していると思います。
一方で、心の内にはやはりどこかで「最後に頼りになるのは身内だ」という保険をかけるような思いを消すことはできないでしょう。それは、親としては自然なことであり、消す必要もないのかなと思いますが……
きょうだいにとっては面と向かって言われる、あるいは面と向かっては言われないまでも、親のそうした願いは敏感に感じています。障害のある兄や弟の世話で苦労している親をみていて「自分の役割はどうあるべきなのか?」を悩まないではいられません。
親の願いは残念なことに「呪い」となってしまう。

その複雑な思いをひとことで言い表すことはできません。わたしが、きょうだいのお話を聞かせてもらって共通しているように感じるのは「うしろめたさ」のようなものです。うしろめたさなんて感じる責任はないのになぜ?
障害のある家族の話題をだしたときの、不意を突かれ、ハッとしたような顔、そして話しながら見せる影が差したかなしみの表情──。

最初に書きましたが、カイにはきょうだいがいません。
わたしは、自分がいなくなった後の彼の孤独を思うと呼吸が苦しくなります。
きょうだいの立場にある人は、わたし(親)と同じくらい先のことを考えて呼吸が苦しくなる思いを抱えているのではないでしょうか?

親ではないのに。これから大人になって、じぶんの家族をつくって、生きていくのに。幼い子どもの頃から、こんな息苦しさを感じ続けて生きることはキツい。

だから、あの、かなしい表情が晴れるような、心を軽くできるような輪(サークル)がもっとできたらいいと願っています。

きょうだいの方に教えていただいた、障害者のきょうだい(兄弟姉妹)のためのサイトをご紹介します。

Sibkoto | 障害者のきょうだい(兄弟姉妹)のためのサイト Sibkoto(シブコト)

まだウェブサイトは試運転中ですが、全国にある、きょうだい会が、きょうだいたちが、ゆるやかにつながって語り合える場となりますように。そして、今まだ幼くてひとりで苦しんでいる子どものきょうだいに、先輩たちからのことばが心に届きますように。*1

わたしは思います。

「血のつながりがないほうが、過去のわだかまりがなく、プロフェッショナルなサポートができて暮らしやすいよね」

「大人になったきょうだいは、たまに顔を合わせるくらいの距離感がいいよね」

こんなふうに本人もきょうだいも親も言い合えるといいな。これがふつうになればいいですよね。

障害があることを、家族という小さな輪の「責任」にすることにムリがあるのですから。

*1:Sibkotoに登録できるのは障害、疾病等のある兄弟姉妹がいる者で13歳以上の者に限ります。→会員登録