カイパパ通信blog

カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルの方から来ました

映画『15時17分、パリ行き』で描き出されるヒーローはベタなのかネタなのか?

3月11日に映画1517分、パリ行き」を観てきた。わたしは、過去のことを思い出しながら観た。

wwws.warnerbros.co.jp

まずこの映画、短い。さすがイーストウッド監督、90分間ムダなくいろんな感情をわきおこしながら、走り抜けていく。列車の疾走感が全編通じてあった。

ミスフィットな子どもたち、レッテルを貼ってすぐに排除しようとする学校。
母親たちが、一貫して子どもを愛しているのがよかった。

ラストシーンでは報われた。
要領わるくて、頭もいいとは言えない。それでも、「平和の礎」になりたい、人を救いたいという思いを失わずに大人になって。平凡でささやかな、「善をなせ」という責任感。ヒーローと呼ばれるのが、とてもくすぐったそうな3人だった。

わたしは高校生の時にアメリカに留学していた。空気感(主人公3人のうち2人は従軍している)がわかる部分がある。

アメリカの公立高校には、授業で軍に入るためのプレクラスみたいなものが選択できた。ある日突然クラスメイトが軍服を着て教室に入ってきて授業を受けているから、「どうしたの?」と聞くと、「今日はアーミークラスがあるから」という。
「卒業後自分がアーミーに入るから今からクラスをとっているんだ」と答えた。

アメリカでは、大学に行く学費を稼ぐためにまず軍に入って数年間軍務に服して、それから退役して進学したり、仕事をしたりする人がいて、そういうキャリアコースを学校でも勧められたりする。
友達と話していて、すごく軍に入りたいわけではなくて家庭の経済状況からやむなく、という感じも感じたりした。

日本人にはわからない感覚だが、学校に軍のポスターが貼ってある。進路の1つとして軍がある。
だから、この映画の主人公たちも、使命感に燃えて軍人をやっているわけでもない。だが、結果的に居合わせた場面で、行動ができてしまった。映画は、「なぜ彼らが行動できたのか?」を謎解きするような構成で作られている。時に、聖書の文句を引用するシーン、子どもの頃の夢や挫折、訓練中の向こう見ずな行動をとるエピソードなどが挟み込まれている。

だが、そのエピソードのひとつひとつが「軽い」のだ。どこにでもありそうなごく平凡なできごとに過ぎず、観る者に強い感興をひきおこすことがない(そういう演出になっている)。

イーストウッド監督は、「平凡さの中にある勇気は、このような日常や人生から生まれるのだ。彼らこそが真のヒーローだ」とベタに主張しているフリをして映画もそのようにプロモーションしながら、「人は意外と根拠もなく、深い意味もなく、自己犠牲ができてしまう。ヒーローなんていない。それはすべて巡り合わせのようなもの」という達観した人間観を実は主張している印象を受けた。

この映画がすごくリアルなのは、平凡さを平凡なままに描いているところだ。あえて、事件の当事者たちを本人役としてキャスティングしたのも、プロの役者が「うまく」「感興をひきおこす」ように演じて欲しくなかったからじゃないだろうか?

つくづく凄い監督だ。。。

P.S.
わたしの友達が一番ドキッとするのは、映画の冒頭に出てくる小学校でのカウンセラーとの面談シーンだと思う。子どもを信じてカウンセラーに反論する母親たち。親たるもの、こうありたいと思ったね。

障害の子をもつ家族支援の障壁となるもののひとつとして

kaipapa.hatenablog.com

↑このカイパパ通信blog記事で問題にした(補正を加えた)ツイートに関して、ツイート主である大久保賢一さんが論文の主張を解説する記事が書かれました。ツイート拡散の影響を放置しないための誠実な対応ですね。ぜひご一読ください。

よろしければ、大久保さんの記事のシェアにご協力をお願いします。

格物究理(かくぶつきゅうり) 「親の悲観的思考と自信のなさ」と子どもの行動障害

前述したHandbook of Positive Behavior SupportにおいてDurandらは家族支援の障壁となり得る要因として、家族のストレス、親への高すぎる要求水準、親が介入効果を実感できないこと、セラピストとの関係性、親の社会経済的状況、脆弱なソーシャルサポートなどを指摘していますが、その中の1つとして「親の悲観的態度や自信のなさ」をあげており、そこには付加的な支援が必要であることを主張しています。

(この章では「悲観的思考」の例として、子どもをスーパーマーケットに連れて行くことを取り上げ、実際には買い物の種類や時間の長さによって行動は変わるのに「買い物は何もかも全部ダメ」と考えたり、実際には少しずつ適応的な行動が増えてきているのに「うちの子どもはいつまで経ってもずっとダメ」と信じ込んでいる親をあげています)

Durandらの解説においては、少なくとも「親の悲観的思考や自信のなさ」をスケープゴートにするような意図は感じられず、支援の必要性と支援の可能性を主張している文脈であると読み取れます。

障害がわかった時の圧倒されるような不安…… *1
今もくりかえす将来への茫漠たる不安。抑うつ的になりたくなくても、ぎりぎりのエッジを生きている感じはぬぐえません。
わたしは、強い落ち込みの後に、外に出て行って仲間を見つけることに夢中にななりました。それがベストだったとも、それ以外に方法がないとも思いません。
「カイパパ」というペルソナが守ってくれることもあれば、自分を傷つけることもありました。

「ロールモデル」のような表現や祭り上げ方には抵抗があります。「あの人は、ああだから、あなたも」というアドバイスにはリスクがあります。

結局は、いろいろ見て経験して、いったん「じぶんはじぶんだ」という「その時点での納得」を見つけ続けて、ひと息つきながら生きていくんでしょう、わたしたちは。

*1:ちょっと大久保さんの記事からは離れますが、思ったことを書きました。

話題のツイート「親の悲観的思考と自信のなさ」についてカイパパが補正を加えたいこと

Twitterでは文字数の制限があるので、論文の内容要約・紹介はむずかしいです。

特に、要約が衝撃的でキャッチーだったりすると、ものすごい勢いで拡散されていきます。そのツイートの後に、補足ツイートがついていたりするのですが、補足は読まれずにパンチ力のあるツイートだけが一人歩きします。

今週目の当たりにした典型的な例をみてみます。

このツイートに対しては、激しい反応が起きました。いわく「育てにくい子を持って、親が悲観的になり自信が持てないのは当たり前ではないか」と。そりゃそうですよね。

ツイートで記事や論文が紹介するときに、URLを貼ることでツイート内容が正確かどうか検証できるようにするのが作法です。このツイートも作法を守りリンクが貼ってあるのですが、論文が英語で書かれていて、本文を読むためには購入が必要なため、論文の現物に当たることが難しいです*1。また、無料で読めるサマリー(要約部分)にはツイートで書かれている内容は書かれていません。

そんな中、猛烈な勢いでリツイート(1万1千以上)がされていきました。「お気に入り」登録数も2万近くあり、本当に多くの人の目に触れました。

そもそも片言隻語*2に過ぎないツイートが大拡散するケースは「読者が元々もっていた信念を補強するような内容」であることが多い。「私が思っていたことが論文によって証明された」と思うわけ。逆に「元々もっていた信念に反する内容」であれば、反感リプライが殺到することになる。

論文そのものは読まれず、わずかな文字数のツイートを「自分の信念・文脈によって理解」して激しい反応を引き起こすんですね。

わたしが当該ツイートから受けた印象は、「また新たな母原病説(自閉症の原因は母親の不適切な対応によるとする説)か」ということです。親がダメだから子どもの症状が悪化する。とても切ない思いをしました。これも、わたしが自分の信念にひきつけて解釈したからですね。

ツイート主である@kenichi_ohkuboさんとやりとりをする機会があり、教えてもらったことは、

  • 「子どもに自閉症や行動障害があって、その結果親が自信を持てず悲観的になると行動障害が悪化する」ということを示している研究ではない
  • 「親になる以前から元々悲観的に物事を捉える傾向のあった人は、親になったときに通常のペアトレなど単独のアプローチではあまり効果が期待できないので付加的なサポートが必要」という話
  • 「特に悲観的な親に付加的な支援が必要」、「というかそこからやる必要のあるケースもある」という当たり前のことを示している研究

でした。実はわたしも見逃していたのですが、最初のツイートの直後に次の補足ツイートもされていました。

また、次のツイートも追加されています。残念なのは、フォローしている人以外には届かないことですが……。

最初のツイートを読んで傷ついている親の人に届けたくて、わたしもこのブログ記事を書いています。

悲観的になるのは当たり前です。18歳の子を持つわたしだって、未だに将来のことを思って不安になり無力感を感じています。ましてや、初めて子どもの障害がわかった時期に悲観的になるのは自然なことです。

ツイートで紹介された研究が主張していることは、もともと悲観的な傾向を持つ親*3にはプラスアルファの支援・配慮が必要だということです。

おわりに、afcpさんのツイートを置いておきます。 

親は自分自身のもつ不安を隠さずに見せていきましょう。だって、それが子育てにリスクをもたらすとわかってきたのだから。「助けて」と。

支援者はだれにでも効く万能薬や特効薬のような支援はないから、選択肢の多い「薬箱」のようなものを持ちましょうというメッセージと受けとめました。

そして、社会は、システムは、親と支援者を狭いサークルに閉じ込めないでほしい。親も支援者も一所懸命です。社会がもっと寛容に多様な存在を認めれば、生きづらさはなくなっていきます。

 【追記2018年2月28日】

格物究理(かくぶつきゅうり) 「親の悲観的思考と自信のなさ」と子どもの行動障害

大久保賢一さんが論文の主張を解説する記事が書かれました。ツイート拡散の影響を放置しないための誠実な対応ですね。ぜひご一読ください。

【参考】

関連したツイートのまとめです。ちょっと理解が難しいのですが、参考になります。

togetter.com

*1:私も本文は読んでいません。

*2:わずかなことば

*3:それだって個性のひとつであって尊重されるべきもの。悲観的な傾向それ自体は、行動を慎重にし、生き延びるために役に立つものでもあります。

よく調べるとペアレントメンターなどの補助を市町村まで拡大する予算でした!【平成30年度厚労省予算案】

2月1日に書いた記事の続きです。

kaipapa.hatenablog.com

この記事で引用した時事通信の記事からは、国が新たに補助を始めると読めたのですが、

「アレ? 待てよ。愛知県では親の会(愛知県自閉症協会・つぼみの会)が県からペアレントメンター*1事業を受託しているなあ」と思いました。

そこで、

平成30年度厚生労働省所管予算案関係|厚生労働省

を調べてみました。

「平成30年度各部局の予算案の概要 障害保健福祉部」

この中の7ページにありました。

(1)発達障害児・発達障害者とその家族に対する支援【新規】
地域生活支援事業等(493億円)のうち1.3億円
発達障害児者の家族同士の支援を推進するため、同じ悩みを持つ本人同士や発達障害児者の家族に対するピアサポート等の支援を充実させ、家族だけでなく本人の生活の質の向上を図るとともに、身近な支援を実施するため対象自治体を市区町村まで拡大する。 

ここには「市区町村まで拡大」とありました。

実は、厚生労働省は、平成22年度から広域自治体(都道府県)によるペアレントメンター養成研修実施に補助を始めていました。平成25年度からは広域自治体のコーディネーター配置が補助対象になっています。

つぼみの会が愛知県から受託しているペアレントメンター事業はこれのようです。

2018年度からは、都道府県だけでなく、市町村にまで対象を拡大するわけですね!
それから、伝聞ですが、ペアレントメンターが行う茶話会の開催などの支援活動そのものも新たに補助の対象になるようです。予算規模は1.3億円と決して小さくはありません。

わたしが前回の記事で、「国や自治体が直接的に当事者支援に乗り出すようになったら、親の会の存在意義がなくなるかも?」という懸念を書きました。

ですが、愛知県の事例を見ていると、親の会であるつぼみの会が、(国から補助を受けている)県のペアレントメンター事業の受託者として活動をしています。親の会がない地域では、行政がペアレントメンター養成講座を開催して登録する形になるでしょうが、親の会が健在な地域では親の会が委託先として最初の候補になるでしょうし、ふさわしい担い手だと思います。

親による互助活動を、国や自治体が積極的に支援するよい形です。ペアレントメンター事業がきっかけで、親どうしのつながりも生まれることでしょう。エンパワーメントにもつながります。

親どうしだからできることはあり続けると思います。

*1:ペアレント・メンターとは、自らも発達障害のある子育てを経験し、かつ相談支援に関する一定のトレーニングを受けた親のこと。

上映会のやり方 映画「Journey to be continued -続きゆく旅-」

先日、映画評を書いた「Journey to be continued -続きゆく旅-」ですが、「どこで観られる?」とお問い合わせをいただきました。


Journey to be continued(続きゆく旅)予告編 (3分15秒)

この映画は、可児市国際交流協会が、日本社会に居場所を見出せ ない青少年の内面に向き合い、未来を切り開くための方策を探るために、彼らの心情を映像に投影し、対話のツールとすることを目的に制作されました。

したがって、単に映画をレンタルするのではなく、制作者を派遣して、講演・上映・ワークショップといったかたちでの上映会が推奨されています。

ご興味のある方は、可児市国際交流協会までお問い合わせください。
・プレス提供資料 (PDF)

NPO 法人可児市国際交流協会 担当:各務(かかむ)
TEL:0574-60-1200 FAX: :0574-60-1230
Email:npokiea@ma.ctk.ne.jp
〒509-0203 岐阜県可児市下恵土 1185-7

【料金表】(上映を含む 2 時間の規定料金)

・監督による講演
70,000円(企業対象) 50,000円(学校、行政対象) 50,000円(市民、NPO対象)

・プロデュサーによる講演
50,000円(企業対象) 40,000円(学校、行政対象) 30,000円(市民、NPO対象)

・製作担当者による講演
30,000円(企業対象) 20,000円(学校、行政対象) 10,000円(市民、NPO対象)

*上記は、50 人までの規定料金です。消費税と旅費は別途申し受けます。 参加人数、時間により料金は異なります。ご相談ください。

カイパパの映画評はこちら

実に素晴らしい映画なので多くのかたに観てほしいですね!kaipapa.hatenablog.com

知らなかった!! iPhoneだけでKindle本を音声で読める!

衝撃。シラナカッター!!!

iPhoneで、「設定>一般>アクセシビリティ>スピーチ>画面の読み上げ」をON
これだけで、Kindle本を音声で読める! 画面を二本指で上から下へスライドすれば読み上げが始まります。

やりかたは以下の引用記事をご覧ください。

soi24.net

引用記事では、iBooksは音声読み上げ「できない」とありますが、試したところ大丈夫でした。*1

あと、日経電子版も音声読み上げがすごく便利です。*2

Safariも読み上げ対応ですが、FacebookやTwitterはボタンや不可視情報の読み上げが多すぎて、ちょっとつらいです。

お試しください。

*1:hontoの電子書籍はダメでした。

*2:無機質な読み上げなのでニュース系に向いている。

映画「Journey to be continued -続きゆく旅ー」は傑作だった!

f:id:kaipapa2shin:20180208211616j:plain(c) 可児市国際交流協会

可児市国際交流協会が製作した本映画は、可児市、および周辺地域に住む外国につながる青少年たちの心情を映し出しています。

日本文化を持たない青少年の学校や社会での課題、サポートする協会 や教育者たちの葛藤、そしてこれから日本が向き合うべき多様な人々との共生のあり方について、様々な問いかけが生まれました。

美術家でありイミグレーション・ミュージアム東京の主宰でもある岩井成昭氏が岐阜県に滞在し、美術を用いた独自のアプローチで青少年と対話し、製作したドキュメンタリー映画です。

ドキュメンタリーというと登場人物に寄り添って、その人のドラマを追いかけるのが定番ですが、この映画はちがいます。映画としての「企み」に満ちたアート作品です。

この作品を観るであろう想定観客は、外国人の子どもや移民、多文化共生に関心があるひとたちでしょう。ですが、わたしは見終わってから、そういったテーマに関わりがない人にもぜひ観てほしいと強く思いました。

*以下は、いわゆる「ネタバレ」を含みます。白紙の状態で、事前情報はシャットアウトして観たいかたはご注意ください(わたしもそのクチです)。
ですが、映画評のおかげで、観るつもりがなかった作品を観ることもあるわけで。この映画は自主上映会でしか見られない映画です。この記事が、そういった上映会に足を運ぶ、さらには上映会を開く、そんなきっかけにつながればこんなにうれしいことはありません。

内なる風景と明晰な言葉

チャプター1「内なる風景」

可児市で暮らす16歳から22歳までの外国にルーツを持つ若者たちが、「自由に、なんでも描いていい」と言われて白いキャンバスの前に立つ。
キャンパスには、色とりどり様々なスタイルで「内なる風景」が描き出される。

彼女・彼らは、明晰に自分が描いた具象が表しているものを言葉にする。

「緑は希望。赤は悪いこと」
「青は気持ちいい、うれしい。赤は戦争、かなしみ」
「暗い色は昔の悪かった自分。黄色いドットは親からのアドバイス。その時はわからなかった。だんだんと明るい色、善悪の区別を学んだ今の自分。でもそこには黒いドット(失敗)が散らばっている」

筆だけではなく、手や足もつかう。動きのあるアクション・ペインティングだ。誰から習ったわけでもないだろうに。

わたしが好きだったのは、アレクサが描いたピンクの(たぶん桜の花びらがイメージされた)絵だ。最後に「愛」と描かれたことで背景となってしまったが「愛」を書き加える前の絵に感動した。

ハレーションする言葉たち

チャプター2では、彼ら彼女たちの肉声がコラージュされている。ものすごい情報量だ。
通常ドキュメンタリーでは、だれか主人公を設定して中心を定めて展開する。だが、この映画では特定の主人公はいない。
多くの若者(15名ぐらい)が登場するが、名前だけの紹介で国籍や滞在歴などのプロフィールは紹介されない。登場のしかたも、ランダムだ。だから、顔と声と言葉とそして描いた絵が断片的に印象に残る。

そして、膨大なことばは、相互に矛盾したメッセージを放つ。

・漢字がダメで学校はやめた
・嫌いでもイヤでも勉強はした方がいい
・頭の中がぐちゃぐちゃ。勉強してもふつうよりできない
・ポルトガル語を使ってはダメと言われた
・日本のルールに従うしかない
・「ちがう」からいじめやすい
・我慢すればいつか成果がでる
・高校に行かなくて後悔している
・いじめ、無視、死ね、名前をからかわれた
・先生に言っても「いつか治るよ」と何もしない
・自殺を考えた
・親は子どもが日本人とふれあう機会をふやすべき
・忙しくて親と話す時間がなかった
・日本人は親を大切にしない。ブラジル人は親を大切にする
・親と会話できていない。妹とも話していない。誰とも話していない
・家族はバラバラでもいい

それぞれ別の人がしゃべっているから矛盾していて当たり前なのだが、情報量に圧倒され、だれが何を言ったのかがわからなくなり、観る者の中で、ハレーションを起こす。
その結果、すべてのメッセージを包含した「ひとりの人格」がイメージとして立ち上がってくる。
この「矛盾」「混乱」「混沌」をすべて、今「ひとりの子ども」が体験してきているんじゃないか? どの外国ルーツの子どもであっても、共通して苦しんでいるものなんじゃないか? そう思わされる。

観た者の心に起きること

登場人物の誰かが「大変だったけど、乗り越えてここまで来た」と言えば、受けとめた側はそのひとりの成功事例をもって「よかった」と安心することができるだろう。

だが、この映画では一人ひとりの言葉がハレーションを起こし「ひとりの人格」が全てのメッセージを話しているような印象を与える。

わたしたちは「めでたしめでたし」と拍手して終わりにはできない。若者の「混乱」は今そこにある現実。受けとめたイメージを不安定な状態でジャグリングし続けるしかない。

ラストシーン、塗りつぶされるディストピア

ざわついた心を抱えて、映画のラストにたどり着く。

エリザが描いた絵が映し出される。
淡々とした声で説明される──

青は幼かった頃のしあわせな記憶。オレンジは日没。
赤は夜、悪いことはたいてい夜に起きる。人が人を傷つける。赤は血の色。
赤の中に描かれる人たちはみな黒く塗り込められている。表情はない。だれひとり信じ合えないから。
建物が燃えている。でもだれも助けようとしない。
中央に描かれた木には、美しい色が使われている。平和、宗教、太陽をあらわすシンボルが木の中にある。木は支配者を現し、支配者が美しいものを独占しているのだ……

なんというディストピアか。
人間が人間とつながれない、絶望の世界。それが少女が目に映るリアルなのだ。

カメラは絵が描かれた巨大なキャンパスを引きでとらえる。

キャンバスの前に突然、男が現れる。ビニールの服を着ている。非日常感。わたしは除染をする人を連想した。

彼は無言でエリザの絵を緑のペンキで塗りつぶし始めた(!)

「緑は、ブラジルでは希望=エスペランザの色」というナレーション。
キャンバスが、完全に緑一色に塗りつぶされて、映画は終わる。

単純に解釈すると、
「ディストピア(絶望の世界)を、「希望」で塗り替えよう」
という演出だろう。

だが、ハレーションする「混乱」を受けとめたわたしには、これがそんな単純なメッセージだとは思えなかった。

最初「このラストは暴力的だ」と感じた。

せっかく描かれた絵が抹消されたからだけじゃない。彼女の心が描いたディストピアを、他人が勝手に「希望」で塗りつぶしてしまっていいのか? これは暴力だという憤りだった。

後味の悪さが残り、なぜこのラストを映画の最後に置いたのかを考えさせられた。

こういうことかもしれない〜映画の企み

「映画が終わって、よかったよかったと言い合いたいんでしょ? でもそれって若者が真剣に描いた(発した)絵(メッセージ)を、「希望」とかいうふんわりしたよさげなものでおおい隠し、見えなくしまう行為とおなじだよ」

ラストシーンは、自分が安心するため、他人の苦難を美談に仕立て上げ、真の課題に蓋をする無責任なわたしたち(映画制作者も含む)へのメタ批判になっているのではないか?

外国人の子どもが自由に描く
アート
キャンバスの前で心のうちを語り出す

こういう映画だから。いくらでも美しくつくりこみ、心を揺さぶり、共感を生み出すことはできる。制作者はそういうアプローチを選ばなかった。

ナマの言葉をコラージュし、個人ではなく集合体としての「ひとりの人格」をつくりだした。

その子は混乱と混沌を抱え、いまこの瞬間を苦しみ続けている。

ラストシーンでは、「希望」によってディストピアが消滅する(表面的には)。

そのシーンは暴力的で、異様な印象を残し、観る者の心を攪乱し、予定調和を許さない。

見終わってから、わたしはずっと考え続けている。

こんなすごい映画でした。

 

以上。

マニアックな作品解釈なので、「カイパパ、どんだけひねくれているんだ!?」と思う方もいらっしゃるでしょう。そんな方こそ、ぜひ観ていただきたいです。対話しましょう!

 【2018年2月11日追記】

上映会のやり方、料金表について追加記事を書きました。

kaipapa.hatenablog.com

国が発達障害当事者や家族同士の交流を応援。そこで思うのが「親の会」の存在意義とは?

www.jiji.com

(引用)
事業では、発達障害者本人や家族同士のピアサポートの場づくり▽発達障害の子どもを育てた経験を踏まえて相談に乗る親「ペアレントメンター」の養成やその活動支援▽子どもの成長に関する保護者向けの講座実施-などに取り組む自治体を支援する。 

基本的には、もちろん良いことです。
特に当事者のピアサポートは、親の会でもできているところは少ないです。当事者のピアサポートには、コーディネーターの存在が重要だと思います(必須ではない)。自治体が、コーディネーターを見つけて、場づくり(最初の一歩となるだけでも素晴らしいこと)をしてもらえるとよいですね。

個人的には、親の会の会員数減(そもそも若い親たちは入会しない)→担い手が減り、活動が活発でなくなり→存在意義が薄れていく現状と照らし合わせて、複雑な思いがあります。
互助では立ちゆかなくなっていき、公助頼みになるしかないのかな……。
もう、親の会って必要ないんでしょうか? みなさんはどう思われますか?

成年後見を利用し始めると有無を言わせず一律で職業から排除される「欠格条項」の法改正がついに実現しそうです

this.kiji.is

ついに、欠格条項が削除される見込みです。

現状は、たとえば公務員について言うと、知的障害者が成年後見制度を利用している場合には「公務員に就くための資格がない」として受験すらできません。また、公務員として働いているひとが成年後見制度を利用し始めたら、有無を言わせず失職となります。これは法律で決まっているので、裁量の余地がなく職を失います。*1

成年後見制度を利用しているかたでも個人個人の状態像は異なります。一律の扱いは雑すぎて、権利を制限しすぎているのです。
この欠格条項があるために、本当は成年後見制度を利用したいのに利用できない人もいます。

権利擁護のいの一番に改正が必要だった条項です。本当に改正されるか注目したいと思います。

改正に向けて、内閣府設置の成年後見制度医療促進委員会で2017年9月以降に議論されています。

成年後見制度利用促進委員会 - 内閣府

 

*1:公務員以外にも数多くの職業・資格について同様の欠格条項が定められています。

「成年後見になると仕事ができない?」 | 広島メープル法律事務所

がわかりやすいです。

子どもが大人になってからの絶望は本物の絶望なんだ。だからといって殺していいわけがない……

www.chunichi.co.jp

ニュースの続報では、殺された長男は重い自閉症で、通所施設に通っていたが他の利用者に暴力を振るうという理由で2年前から通所を辞めて自宅にいた。家族に対する暴力もあり、入所施設を探したが見つからず……思いあまっての犯行のようです。

 

子どもが小さいころの絶望と大人になってからの絶望
子どものうちは、それでも多くの支援資源があるのです。
大人になってからは「こうなったのはあなたの責任です」と平気で見放す人びとがいる。大人になってからの時間の方がはるかに長いのに……

 

遠い世界の話ではない。すぐ隣り合わせにわたしたちもいる。

だからこそ

自戒を込めて言う。

絶望したからと言って、殺していいわけがない。
生きたいと叫んでいる命を、奪う権利は親にも、誰にもない。
殺すぐらいなら放り出せ。親と子は別々の命。
この世から命を消してしまう、そんな「親の責任感」なんていらないんだ。

 

高橋源一郎『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』はキヨミヤくんの章だけは必読だと思う

高橋源一郎『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』読了。
以前キヨミヤくんの章を「すばる」連載中にたまたま読んで、これは傑作になる予感がして、完成したら読みたいと待望していた。

新書で出ているけど正真正銘の小説です。思考実験のようでいて、説話のような、おとぎ話、子ども向け冒険譚。いろいろな読み方ができる。実に魅力的で面白く読んだ。途中までは。

@アイと雪の女王が出てきたあたりから、アレ……?と思って、やはりそういう展開になっていった。

作者はこの小説を21世紀の「君たちはどう生きるか」にしようと思って書いたというが、残念ながら、遠く及ばない。

でも、「10 キヨミヤくんのこと」(p.91-104)の章は、珠玉なので読んで欲しい。一人の少年のモノローグが胸を貫く。
全体が「おとぎ話ですよ」というトーンで進むこの小説世界の中で、生(なま)がのぞく瞬間。同時代の、格差・不平等への告発文。「なぜ自分は、自分たちは、排除され続けるのか」

キヨミヤくんだけが、この小説の登場人物の中で、ユートピア的な学校・家庭・「くに」からハブられた外部的存在だからだろう。シングルマザーとその子である自分を「負け組」と自認するキヨミヤくんが、ユートピアの中にいる主人公を外側から照射している。
評価に困るが、優れた小説にはこういうことがある。たった13ページだが、ずっと何年も心に残り、うずきつづける予感がする。

 

ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた (集英社新書)

ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた (集英社新書)

 

 

カイの写真に見とれて、準備がはかどりません!!!

kaipapa.hatenablog.com

こんな記事を書いて、高らかに「親バカ宣言」をしたんですが、カイの写真に見とれて、肝心の自己紹介の準備がはかどりません!

だって……

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じっ…

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そぉ…

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やった!

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見つかっちゃった…

こんなんですよーー! たまらん。

Beutiful Boyがカイのテーマソングだと思うわたしはどこから見ても立派な親バカ

川崎医療福祉大学での自閉症特別講座がいよいよ明日です。レジメは既に送付済みなので安心だと思っていましたが、自己紹介の準備がまだだったと気がつきました。

今回いただいたテーマが「育っていく家族、家族からの支援者へのメッセージ」なので、話す内容よりも「だれが」話すかの方が重要かも? 
多少はじぶんの紹介も必要ですよね。
カイパパはカイあっての存在なので、カイの紹介もしようと思い、昔の写真アルバムをひっぱりだして眺めています(←今ココ)。

はあ…

ため息が出るほど可愛い。写真はいいなあ、止まっているから。あんなに大変だったことは映り込んでいないし。

わたしはビートルズが好きで、なかでもジョン・レノンのファンです。カイの写真を見ていて心のなかで流れてきたのはジョンが息子ショーンのことを歌ったこの曲。


Beautiful Boy (Darling Boy) - John Lennon

こわいおばけはいってしまったよ
ここにパパがいるから大丈夫

と歌う。やさしくやさしく息子に語りかける。

このBeautiful Boyが、カイのテーマソングだと思うわたしはどこから見ても立派な親バカです。

親バカで、子どもは育つ! これは持論なので、全然恥ずかしくないゾ。

初めてわが子の自閉症の診断を受けたお父さん、お母さんへ

来週の川崎医療福祉大学での講義の準備をしています。
カイの障害がわかった時に、自分が何を考えていたかを思い出すために昔の記事を再読しています。
「初めてわが子の自閉症の診断を受けたお父さん、お母さんへ」は、カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクルで最も多く読まれた記事です。今読んでも、わたしは同じことを言うだろうと思いました。大切な記事なので、新しいブログでも再掲載しておきます。

初めてわが子の自閉症の診断を受けたお父さん、お母さんへ

(初掲載:2004年4月15日 カイパパ通信blog☆自閉症スペクタクル)

 私は4歳の男の子(知的障害を伴う自閉症)の父親です。わが子は2歳4ヶ月のときに、自閉症の診断を受けました。
 そのときの気持ちは、いくら時間が経って努力して事実を受けとめてきたとしても、文章で表現しきれるものではありません。私もまだ小さい子どもをかかえて、日々の悩みや憂いの中にいます。ですから、「アドバイス」めいたものは書けないのですが、私が苦しかったときに(今も)大切にしてきた5つの言葉を紹介します。
(2003年7月16日 カイパパ 記)

1 「今は喪中だから」

 診断の告知を受けたときに、私たちは混乱し深い悲しみに落ち込み、おぼれてしまいそうになってしまいました。
 その感情は、将来に対する不安と喪失感だったと思います。「しっかりしなくちゃ」と思うのだけど、ふとした瞬間に涙がこぼれてしまい、仕事が手につかないくらいでした。また、妻の落ち込みも激しくとても心配でした。

 そんなときに、妻が言った言葉――「今は喪中だから悲しいだけ」。この言葉の意味は、「今は喪中だから悲しむだけ悲しむ。でも時間が経って喪があければ大丈夫だから」という前向きな意味が込められていると思いました。

「悲しいときはがんばらないでいいよ」と伝えたいです。悲しいときは悲しみにくれたらいいんです。仕事だって、休めばいい。子どもの障害は、それくらい重く大事なことなんですから。

2 全ては日常になっていく(日常の復元力)

 一番つらい時期に、つぶやいていた言葉です。「全ては日常になっていく」――この言葉は、恋愛などドラマチックな出来事もすぐに慣れて日常の退屈なものになってしまうというような意味で使われることが多いと思います。

 しかし、私はこの言葉は、強い「日常の復元力」を表現していると思いました。
 つまり、どれだけ大きな悲しみがあったとしても、腹は減るし、トイレにも行くし、夜は眠くなる。自分がどんな気持ちでいても世界は回り続ける…。
 永久に「悲劇の主人公」ではいられないんですね。いつの間にか、子どもの障害が所与のこと(初めから与えられたもの)と、自分自身の体と心がなじんでいくんです。

 今、悲しみのさなかにいるあなたには信じられないかもしれません。しかし、真実です。それくらい「日常」は強くて、私たちの生きる力も強いんです。「全ては日常になる」覚えておいていい言葉だと思います。

3 「診断の前後で、わが子が別人になったわけではない」

 考えてみてください。私たち、親は障害の確定診断を受けて、悲しいけれど、わが子はどうでしょうか? 診断の前後で、わが子が変わったわけではありません。診断によって、自閉症になったのではないのですから。

 そうだとしたら、一度冷静になって少し引いてわが子を眺めてみてください。より可愛く、いとおしく思えてきませんか。
 ハンディがあることは、生きづらく、大変なことが多いです。一番不利な立場に置かれているのは本人です。普通の子が1回で覚えることを、わが子は100回1000回やっても覚えられないかもしれない。でも、「それがどうした」と私は思います。できなくてもいい。この子なりのペースでやっていけばいい。足りないところは、支援してあげればよい。
 きっと、そんな気持ちに変わっていくと思います。

 自閉症とわかったことは、わが子を理解するためにとっても幸運なことです。なぜなら、障害特性を理解することで、これまで「育てにくく」感じていた理由がはっきりして、どうすればわが子にとって、わかりやすく、すごしやすくできるかの工夫ができるからです。
 超個性的なわが子が、最高の宝物だと心の底から思える日がきっと来ます。

4 「子育てを夫婦だけでかかえこまないで」

 この言葉は、私の高校時代からの恩師からかけていただきました。

 多くの場合、障害がわかってから、そのことを誰にも話せず、夫婦だけでかかえこんでしまいがちです。私たちもそうでした。
「自分の親・兄弟にどうやって伝えたらいいのか」とても悩みました。どのように伝えるかについては、それぞれの関係によってさまざまですから一概には言えません。数ヶ月・数年かかることもよくあります。言えないのはあなただけではありません。そのことは知っておいてください。

 けれども、夫婦だけでかかえこんでいると「破綻」が来るおそれがあります。なぜなら、この子たちはとても「育てるのが大変な」子どもたちだからです。夫婦だけでは負担が重過ぎて、支えきれないのです。
 だから、いつの日か「カミングアウト」して、外に出て行きましょう。

 今はまだわからないかもしれないけれど、世の中には、本当に「この子たちの助けになりたい」と心から思っている人たちがたくさんいるのです。
 障害のあるなしに関わらず、子どもは「社会が育てるもの」です。
 だから、自分の両親、友達、同じ立場の親仲間たち、療育者、お医者さん、ボランティアさんなどなど、みんなが力を持ち寄ってこの子たち(そして私たち親たち)のしあわせを実現できたらいいですよね。

5「他人の偏見には鈍感に。他人の親切には敏感に」

 自閉の子と外出するのは大変です。「覚悟」がいります。ちょっと目を離したらいなくなるし、めったやたらと物を触ったり、超音波の奇声を発したり、電車で隣に座った人のメガネをとってしまったり……。
 そんなとき、何も知らない他人は「何? このしつけの悪い子は!」と白い目でこちらを見ることがあります(世の中には「白い目」というものが本当にあるんだと初めて知りました)。ツライですよね。もう他人がいる場所へは子どもを連れて行きたくないという気持ちになります。

 そんなときに、妻が「他人の偏見には鈍感に、他人の親切には敏感でいようと思う。そんなひとも障害を知らないからそうしちゃうだけだから。手を差し伸べてくれる人もいるから」と言いました。さすがに毎日四六時中子どもと一緒にすごしている母親の言葉はちがうなと思いました。

 父親は母親に比べて、子どもと過ごす時間が少ないので、なかなか根性が座らないところがあります。できるだけ奥さんの声に耳を傾けて、たとえばこういった「心構え」ひとつをとっても、共有しておくことは大切だと思います。

 私は、子どもの障害がわかってから、「人の情けのありがたさ」が骨身にしみるようになりました。世の中捨てたもんじゃないです。できるだけ、偏見は気にせずに、私たちはわらっていましょう。「笑う門には福来る」です。

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